岡本おさみが泉谷しげるに書いた「黒いカバン」の歌詞に、”ぼくは人間ですよ”というフレーズが出てくる。
そこには「いち庶民」の目線でうたのことばを書くという、岡本の詩人としての姿勢が反映されていた。
髪を長く伸ばしているというだけの理由で警察官から職務質問を受けることが、1970年代の初頭までは日常茶飯事のこととしてあった。
1960年代後半に吹き荒れた激しい学生運動の名残りがあったために、この歌詞のなかで描かれたようなことは誰にも起こり得たのだ。
そんな体験がそのまま歌になったのが「黒いカバン」である。
泉谷しげるは「俺も3、4回経験があるからね」と岡本との対談で語っていた。
岡本 ぼくは泉谷の作品では「ねどこのセレナーデ」が一番好きだ。黒いカバンの詩は書き方は軽いけど、中身ははっきり書いたつもりなんだけどね。
泉谷 あれはおもしろいというんで受けてるところはあるよ。ああいう状態はよく起こり得るからね。
泉谷しげるならではの生身の人間らしさ、独特のユーモアのおかげで「黒いカバン」は観客の笑いをとり、二人のコンビによる代表作となっていく。
コンサートの会場で「黒いカバン」が始まると当時の観客はみんなよく笑った。だが、なかには笑えなかった人間がいたかもしれない。
ところでライブで大受けしていた割に、「黒いカバン」にはそれほどヒットしたという印象がない。
1972年4月25日に発売されたオリジナル・アルバム『春・夏・秋・冬』に収録された「黒いカバン」が、もしもシングル盤で発売されていたならば、当時の深夜放送などでは人気コミカルな内容からヒットした可能性は高かった。
そうならなかったのはいわゆる放送禁止の指定を受けて、テレビやラジオから締め出されたからである。
最初からヒットの道が閉ざされていたのだ。
とはいえヒットを望んでいたのはレコード会社であり、その頃は岡本も泉谷も商業的な成功にさほど関心を持たなかった。
岡本は泉谷との対談のなかで「作品だけが残るなんてのが理想」だと、スタンダード・ソングにも通じる考え方を当時から語っていた。
最終的には目立たなくて、ありふれた一庶民として埋もれてしまって、作品だけが残るなんてのが理想かな。
岡本はその後に吉田拓郎と二人で作った楽曲、「襟裳岬」を森進一に提供して1974年のレコード大賞に輝いたあとも、商業路線には背を向けて旅をする詩人として生きた。
泉谷しげるもまた「ありふれた一庶民」の怒りや嘆きを、歌や芝居、毒舌のトークによって、今でも一貫して表現し続けている。
(注)岡本おさみの歌詞、泉谷しげるとの対談および発言は、ともに「ビートルズが教えてくれた 岡本おさみ作品集と彼の仲間たちの対談」(自由国民社)からの引用です。
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