岡本おさみは大学を卒業してから数ヶ月、高校の教師をやったが耐えられずに退職し、ラジオ番組の構成を手がける仕事についた。
最初に携わったのは1966年に始まってまもなく、ニッポン放送の名物音楽番組となる『バイタリス・フォーク・ビレッジ』だった。
番組を開始するに当たってはアメリカのフォークソングを聴いて勉強し、日本の大学生たちがどんな歌をうたっているのかを取材した。
そしてニッポン放送の第1スタジオで歌が収録される日は、スタジオの前にある喫茶ルームで出演するシンガーやバンドのメンバーに話を聞いて、番組のなかで使えそうなエピソードを台本に書き込んだ。
そうしたことから自然に、フォークシンガーとの縁ができていった。
番組からはマイク真木、森山良子、ブロードサイド・フォー、小林啓子、PPMフォロワーズ、ザ・リガニーズ、キャッスル・アンド・ゲイツ、広川あけみ、フォー・セインツ等がレコード・デビューしていった。
当時の岡本おさみは父と母の生活費をみていたこともあり、『バイタリス・フォーク・ビレッジ』以外にもいろいろな番組を手がけてていた。
フリーの放送作家という不安定な立場にあったので、仕事を選ばずに食いつないでいるという心境にあったようだ。
そんな時期の1969年11月、新左翼による佐藤首相訪米阻止闘争のさなかに友人が自殺した。
忙しさを理由に彼の相談にものれなかった。
その後すぐ二つの番組を残し、あとはやめた。
何もしてあげられなくても躰を暇にして話し相手くらいにはなりたい。
吉田拓郎が71年から渋谷の前衛的な小劇場「ジァンジァン」でライブを始めたのは、岡本おさみがきっかけだった。
ジァンジァンのオーナー高嶋進と雑談をしている時に「今、日本語のフオークソングが活力を持っている」という話をすると、「じゃあ、そのライブをやってみないか」ということから、吉田拓郎の定期ライブをやることになったのだ。
その頃から岡本おさみが自分でも歌詞を書いてみようと思い始めるのは、新しい歌が日本語のフォークやロックから生まれて刺激を受けていたからである。
誰もが自分の言葉で書きたいことを書き、歌いたいことをうたうという時代が来ていた。
言葉と日常の顔とが同じでないと歌が自分を裏切ることになる。
岡本おさみはそう考えて、やさしいあたりまえのことばで、ごく身のまわりのことから書き始めた。
最初に出来た歌は「ハイライト」と「義務」のふたつだったと、岡本おさみは自著『ビートルズが教えてくれた』のあとがきに書いている。
およそ1ヶ月でノート1冊分の歌詞を書いた岡本おさみは、ジァンジァンのライブが終わってから楽屋でノートごと吉田拓郎に渡した。
吉田拓郎が前ぶれもなくジァンジァンで突然、「花嫁になるルミに」と「ハイライト」をうたったのはノートを渡された次の回の定期ライブだった。
事前に何も知らされていなかった岡本おさみは、まず「花嫁になる君に」の歌い出しに驚かされたという。
最後まで聴き終わった岡本おさみは、言葉がストレートに飛び込んできたことに感動した。
岡本おさみは「ハイライト」にも驚かされたと語っている。
さらっとしたユーモアで書いた歌詞を聴いて、観客が大きな声で屈託なく笑っていたからだ。
それはうたっている吉田拓郎を通して、ことばに新たな生命が宿っていったことを示していた。
メロディーを付けられたうたのことばは、シンガーにうたわれることによって思いもよらぬ「歌の力」を発揮するということが、まざまざとわかったのだった。
「花嫁になるルミに」は「花嫁になる君に」というタイトルで、アルバム『人間なんて』に収録されて1971年11月に発売された。
こうして作詞家の岡本おさみが誕生し、同時に吉田拓郎との名コンビが誕生したのである。
それ以降に書いた岡本おさみのうたのことばからは、吉田拓郎という作曲者とシンガーを得て、不朽の名作という評価を得る歌がいくつも生まれていった。
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