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若き日のフレディ・マーキュリーが憧れたロックスターはジミ・ヘンドリックスだった

2017.04.11

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「彼は僕がなりたかったものすべてを体現していた」


フレディ・マーキュリーがもっとも尊敬する人物の一人として挙げているのが、ジミ・ヘンドリックスだ。

フレディの本名はファルーク・バルサラ。
生まれはアフリカ東部の国、タンザニアのザンジバルという小さな島だが、両親はインド出身でしかも2人ともペルシャ人の血を引いているという、やや複雑な経歴を持っている。

海が美しく、世界有数のリゾート地として知られるザンジバル島で幼少期を過ごしたフレディだったが、両親はこの島ではフレディに満足のいく教育を受けさせることは出来ないと考え、故郷であるインドにある寄宿学校にフレディを入学させることにする。

家族から遠く離れた地に独り送られたフレディだが、そこで類まれな才能を発揮し始めた。
学業最優秀賞を受賞するほど成績が優秀で、しかもスポーツでの活躍もめざましく、特にボクシングなどの個人競技が得意で学校の卓球大会では優勝しており、文武両道賞も受賞している。また、ピアノを習いはじめたのもこの頃で、その上達ぶりは目を見張るものがあった。
自分が特別な人間であるというスター的な感覚は、この時期に養われたのかもしれない。


ところが思春期を迎えた頃から学業への興味を失いはじめ、美術を残して成績は軒並み下がっていく。それは音楽や芸術への関心がより強くなったことの表れでもあった。

1963年には家族のいるザンジバル島へと戻ったフレディだが、翌年には家族でロンドンへと引っ越すことになる。クーデターが勃発したのだ。流血のザンジバル革命と呼ばれるこのクーデターによって多くの死傷者が出る中、フレディの家族は命からがらロンドンへと逃れるのだった。

新天地ロンドンで美術大学に通いはじめたフレディだが、街ではビートルズやストーンズを筆頭にロックという新しい音楽が溢れかえっていた。
他の若者たちと同様にロックに夢中になったフレディだが、中でも虜になったのがジミ・ヘンドリックスだった。

ジミがロンドンへとやってきたのは1966年、フレディが20歳の頃だ。
ニューヨークのクラブで演奏していたジミは、アニマルズのチャス・チャンドラーにその才能を見出されてロンドンにやってくるとすぐに注目を集め、翌1967年4月にリリースしたデビュー・シングル「ヘイ・ジョー」はいきなり全英4位のヒットとなった。



その常識はずれな卓越したテクニックにプロのミュージシャンをはじめ多くのロックファンが度肝を抜かれたが、フレディの心を掴んだのは音楽はもちろんだが、ジミのパフォーマンスとファッション、そしてスター性も大きかった。

「彼のライヴがあれば国中を追っかけて回った。ロックスターに必要なものを本当にすべてそなえていたんだ。スタイルも、存在感も。何も無理する必要がなかった。彼がただステージに上がるだけで、会場全体がわっと湧くんだ」


クイーンのドラム、ロジャー・テイラーが聞いたところによれば、フレディはジミが行く先々を追いかけて14日も連続でライヴを観に行ったという。
学校でもフレディはジミのことばかり考えており、授業中にジミの肖像画をスケッチしたり、教室で物差しをマイクに見立てて「パープル・ヘイズ」を歌ったりエアギターをしたりしていた。

大学ではイラストレーションの勉強をしていたフレディだが、卒業すると音楽を本業に選ぶ。
そしてまもなくクイーンのメンバーとなるブライアン・メイと出会うのだが、ブライアンははじめてフレディの家に行ったときのことをこう振り返っている。

「その日の大半は、ジミ・ヘンドリックスがどうやってスタジオでレコードを作っているのか、隅々まで分析してたよ。フレディの持ってたダンセット社のレコード・プレイヤーでビニール盤を聴きながらね」


ギターが大して弾けなくとも、ジミ・ヘンドリックスから吸収できるものはたくさんあった。
パフォーマンスからファッション、スター性、そして音作りにいたるまでをジミから学んだフレディ・マーキュリーは、やがてクイーンとともに自らもロックスターとなるのだった。


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