「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

Extra便

1961年製のテレキャスターに出会って生まれ変わったポリスのアンディ・サマーズ

2016.09.09

Pocket
LINEで送る

パンク・ムーブメントが吹きまくっていた1970年代半ばのロンドンで、ジャマイカ生まれのレゲエの持つ原初的なエネルギーをポップ・ミュージックの構造に組み入れて、それを進化させた大人のロックが生まれた。

ホワイト・レゲエとも称されたポリスの音楽の斬新さは、ドラムとベース、ギターだけの演奏で創りあげるミニマムなサウンドにある。

楽曲の大半を作ったベーシストでヴォーカルだったスティングは、人間の苦悩や社会との関わりといったテーマを歌詞にして独自の表現で歌った。

ドラムのスチュワート・コープランドはレゲエのリズムを取り入れてハイハットを細かく刻みながら、ファンクやジャズの要素を打ち出してニュー・ウェイヴを体現した。

そして独特のギター・サウンドで空間的な広がりを作ったのがアンディー・サマーズだ。

アンディは意外にも長いキャリアのミュージシャンで、生まれは1942年だからビートルズのポール・マッカトニーと同世代、43年生まれのキース・リチャーズや、45年生まれのエリック・クラプトンよりも年上である。

ポリスとして売れたのは1978年、36歳の年だから遅咲きもいいところだった。

イングランドのランカシャー州ブラックプールで生を受けたアンディが、初めてギターを手にしたのは14歳の時だ。
最初に大きな影響を受けたのはジャンゴ・ラインハルトやバーニー・ケッセル、ウェス・モンゴメリー、ジョー・パスといったジャズ・ギタリストだった。

彼らのレコードを聴いてコピーし、テクニックを身につけながら音楽のセンスを学んでいった。
16歳になる頃には週に一回、ジャズ・クラブで演奏することが生きがいになっていた。

アメリカのR&Bに目覚めたのは1960年代に入ってからのことで、人気があったシャドウズの曲を覚えた頃からだ。

ギタリストとして生きていくためにロンドンに出てきて苦労を重ねた後、アンディは1966年にズート・マネー・ビッグ・ロール・バンドの一員としてレコード・デビューしている。

そこではR&Bに影響されたオリジナル曲や、オーティス・レディング、レイ・チャールズのカヴァーなどをプレイしていた。

アメリカ・ツアーに出るソフト・マシーンに加わったりした後に、エリック・バードン&アニマルズと一時的に活動を共にしたアンディは、それを機に1968年から成り行きでアメリカのカリフォルニア州に移り住んだ。
ところがその頃から人生の歯車が狂い出して、後は奈落へ落ちるように沈んでしまうことになった。

「お金もない。ガールフレンドの家に居候しなければ住むところもない。1ヶ月ぐらい住んでみようと思っていただけなのに、それが結局は5年になる。」


バンドマンとしての生活に見切りをつけたアンディはカリフォルニア州立大学ノースリッジ校に入って、クラシック・ギターを専攻しながら、あらゆる音楽を吸収しようとした。
そこで4年を過ごしてハーモニーと作曲、指揮、音楽理論を学んだのである。

だがどこかで、借り物の生活をしている感覚がつきまとっていたという。

ある日、生活費を稼ぐためにギターを教えていた生徒の一人が、ギターを買ってほしいと1961年製の古いテレキャスターを持ってきた。
しばらくエレキギターを弾いていなかったアンディは、そのテレキャスターを手にした途端に虜になった。

 ちょっとだけ手にして弾き始めると心が騒いだ。
 遠い昔の思い出が蘇る。
 忘れていた自分自身を思い起こす。
 僕は心が揺れて、ギターをしばらく手元におきたいと申し出た。
 家に持って帰ると、何時間も弾き続けた。
 誰も止められない。
「僕を弾いて」とギターが話しかけているようだ。

(自著『One Train Later』)

アンディは素晴らしい音色のテレキャスターに出会って、まさに生まれ変わったのだった。
そこから魔法のようにすべてが動き始めて、ギターと恋人を連れて5年ぶりでイギリスに帰ることにした。

やがて新しく結成されたポリスに加入することになり、「ロクサーヌ」や「ウォーキング・オン・ザ・ムーン」、「孤独のメッセージ」、「シンクロニシティー」、「見つめていたい」と、名曲の数々を世に出していく。



その革新的かつ印象的なギターのフレーズは、アンディが愛用する1961年製テレキャスターから生まれたのだった。

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[Extra便]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ