1978年10月20日、スティングとアンディ・サマーズは、格安航空チケットでロンドンからニューヨークへ向かった。午後10時半ごろにケネディ空港に到着し、迎えに来たクルマでそのままライブハウスの「CBGB」に乗り付けた。
金曜日の夜なので、ライブは真夜中から2回の予定だった。しかし、ポリスのレコードはアメリカで発売になっているわけではなく、イギリスから来た無名のバンドでファンは誰もいない。
それでも3週間のツアーにやってきたのは、「アメリカのロック・ファンならば、ポリスの音楽に関心を持ってくれるかもしれない」という希望があったからだ。
というのも、マネージャーのマイルズが「ヒット間違いなし」といって、イギリスのA&Mと契約したシングルの「ロクサーヌ」が、ロンドンではまったくといっていいほど売れていなかった。パンクムーブメントのせいで、当時のイギリスの若者は、音楽よりもファッションを求めているようだった。
そこでA&Mは夏に出すアルバムの代わりにもう1枚、シングル「キャント・スタンド・ルージング・ユー」を8月に出して様子をみた。これがなんとかUKチャートの42位にランクインしたので、A&Mは延期したアルバムを秋に発売することになった。
初めてのチャートインだったから、それほどの順位ではなくてもメンバーたちは喜んだ。ところが「キャント・スタンド・ルージング・ユー」は42位から先に進まないまま、公共放送のBBCで「ロクサーヌ」に続いて放送禁止になった。
自殺をテーマにした内容の歌詞で、スチュワートが氷の上で首吊りをしている写真がジャケットだったために、自殺を助長しかねないと判断されたのだ。
マネージャーのマイルズは先が見えない状態を脱するために、アメリカでのツアーに光明を見出そうと考えて、10月に東海岸を中心に3週間のスケジュールをブッキングした。アメリカ人のマイルズは、ポリスの魅力がアメリカのロック・ファンにも伝わるはずだと考えていた。
ニューヨークの荒廃したバワリー地区で1974年にオープンしたCBGBは、辺りにはホームレスが溢れていたし、ひったくりに遭遇したりするのは日常茶飯事だった。
しかし、音楽ファンにとってはヴェルベット・アンダーグラウンドやテレビジョン、ブロンディ、トーキング・ヘッズ、パティ・スミス、ラモーンズが羽ばたいたクラブであり、パンクやニューウェーブの発信地としてその名が知られていた。
外国から来た無名のバンドのライブに足を運ぶのは、耳のこえた常連客が多い。キャパの3分の1くらいしか埋まっていなかったが、初体験のライブの様子をアンディがこう記している。
店内はロンドンのクラブと同じで薄汚いほら穴みたい。落書きだらけで、着替える場所もなく、楽屋にドアがついていない。僕たちには驚くことではないので、準備を始めた。
観客の前で短いサウンドチェックをしてから、演奏開始。僕らのことを知っている客なんていない。レコードを聞いたこともないだろう。自分たちの価値を演奏で証明しなければいけない。長旅で疲れていたけど、ニューヨークにいることで、元気が出ていた。
ハードでエッジがある音楽を演奏して、僕たちの曲を聴いたことがない観客を圧倒した。エコープレックスのレゲエっぽいジャムと、スティングの高音ボーカルがナイフのように浸み込む。最初の曲が終わる頃には、立ち上がった客から歓声を浴びた。といってもあまり客は入っていなかったけど‥‥‥ともかく僕らにとっては大成功だ。
最初のステージが終わって汗びっしょりで楽屋に戻ると、ドアがない楽屋に観客が勝手に入ってきて、「どこからあんな演奏思いついたの?」「スゴイよ、ロックだ」「どうやって弾いているの?」と、アンディは質問攻めにあった。
アンディ・サマーズ自伝 ポリス全調書
常連客から歓迎されたポリスは持ち曲が6曲しかなかったので、午前2時半からのステージでは間奏の即興演奏を長くするなど、観客のエネルギーに応えてさらに盛り上がりを作った。ロンドンとは大違いの好反響に、メンバーたちは気を良くした。
さまざまな演奏を絡み合わせて、お互いに駆け引きしながら新しいエッジを生み出す工夫は、いくらリハーサルで試してもうまくいくものではない。音楽に瞬間的に反応して熱くなってくれる観客がいて、演奏する側も心の底から高揚するからこそ、みんながハイになるし、新しいフレーズの閃きも生まれる。
ポリスはCBGBから始まったツアーで、3人のメンバーにしか出せないサウンドを発展させることで、即興演奏をスタイルとして徐々に確立していった。
10月23日は、ポキプシーという町の「ラスト・チャンス・サルーン」という、古ぼけてはいるがそれなりのボードビル・シアターが会場だ。”最後のチャンス”という名前は、ポリスを取り巻く状態そのもののようだった。
時間になっていざステージに出てみると、客はわずか4人しかいなかった。スティングはそのとき、前の席に客を招き寄せてから全員の名前を聞いて、それからうやうやしくお互いを、そしてバンドを紹介した。
その日のライブを、スティングは自伝に書きとめている。
私たちはかつてないほどの猛烈なペースでぶっ飛ばした。状況の不合理性にむしろ活気づき、また、不条理な絆で結ばれた聴衆に駆り立てられた私たちは、皮肉っぽい焼けくそも入った興奮状態のなか、アンコールに次ぐアンコールで盛り上がった。ショウが終わると全聴衆がバックステージにやってきた。
5回ものアンコールで興奮した全聴衆4人(!)の中に、地元の放送局のDJがいた。こうして翌日から「ロクサーヌ」は、ローカルラジオの電波に乗ってアメリカ・デビューを果たしたのである。
翌日からは東海岸を楽器とともにクルマで北上し、バッファロー、ボストン、トロント、デトロイトと休みなくライブが続いた。
みんな大した所持金もなく、その日の売上げを食費にあてる。宿泊はモーテル、ときには知り合いや親切な音楽ファンの部屋にも泊めてもらう。売れないバンドはみんなそうだが、ツアーでは厳しい現実にさらされる。
しかし、ボストンではラジオ局WBCNの有名DJが「ロクサーヌ」を気に入って、1時間おきにかけてくれたおかげで、ほかのラジオ局にまで波及して一時的にヒットした。
ラットというクラブにおけるボストン4日間のライブは売り切れになり、観客の歓声や興奮からバンドは確かな手応えをつかんでいった。
さらにはアメリカのA&Mが様子を見に来ていたことで「ロクサーヌ」の評価が上がり、翌年にシングルとアルバムがアメリカでも発売されることにつながった。
マイルズの目論見通りに「ロクサーヌ」はまずアメリカで音楽ファンに発見されて、そこからポリスが世界に向けて進むきっかけを作ったのだ。
このツアーの後も、ポリスはもっと過酷で地味なクラブまわりを二度アメリカで続けることで、プロモーターやクラブのオーナーの信頼を勝ち取って、世界的なブレイクをものにしていく。
〈引用元〉
アンディ・サマーズ (著), 山下理恵子(翻訳)「アンディ・サマーズ自伝 ポリス全調書」 (Pーvine books)
スティング (著), 東本 貢司 (翻訳)「スティング」 (小学館文庫)
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