「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

Extra便

久世光彦特集~フランスの漫画祭で顕彰された昭和の天才絵師・上村一夫が歌う「坊やお空をごらん」

2021.01.11

Pocket
LINEで送る

フランスのアングレーム市で開かれるアングレーム国際漫画祭は、毎年1月末に開催されるヨーロッパ最大の漫画の祭典だという。
数百人にのぼる漫画作家と20万人以上の漫画ファンが世界中から集まり、数々の展覧会やイベントが開かれてにぎわう。

そし優れた作品に対して最優秀作品賞の表彰が行われるほか、漫画の発展に寄与した作家にグランプリに選ばれる。

近年は日本の漫画作品の紹介が進んだことから日本の翻訳作品のノミネートが増えて、2007年には水木しげるが日本人で初めて『のんのんばあとオレ』で最優秀作品賞した。さらに2009年には『総員玉砕せよ!』で遺産賞にも選ばれた。

また2015年には大友克洋がグランプリに輝いた。

そして今年、2017年は昭和の天才絵師と云われた上村一夫が、没後30年を経ているにもかかわらず遺産賞を受賞した。
会期中には上村一夫原画展も開催されて、盛況だったと伝えられている。

フランス上村一夫

広告代理店宣弘社の企画課に勤め始めていた入社3年目の若いサラリーマンだった深田公之、後の阿久悠がまだ無名の頃に出会ったなかで、最も強烈な印象を受けたのは上村一夫だったと著書に記している。

上村一夫は武蔵野美術大学に在学中で、アルバイト社員として宣弘社にやってきた。
その頃の阿久悠はコピーも絵コンテも器用に書く宣伝部員だったが、デザイン科に通うという上村が来たので、絵の方でも手伝わせるかということになった。
上村一夫は21歳、阿久悠が24歳の時である。

 ぼくは今も半ば冗談のように、もしもあの時上村一夫がぼくの近くに現れなかったら、いつまでも器用なだけの絵を描き続けて、将来を見失っていただろうと話す。
 アルバイト学生を使う先輩正社員としてぼくは、絵コンテを描く指示を出したのであるが、その時のショックを忘れない。ほんの何コマか描いた絵を見ただけで、プロとアマの差はこういうことかと思ったのである。


阿久悠はこのとき初めて、天才と呼ぶにふさわしい才能と出会った。
2人が共に過ごしたのはわずか半年ばかり、短い期間だったが仕事ではなく遊びで充実していた。

上村一夫は歌が好きで酔うと必ず得意のフラメンコ・ギターを弾いて、好きな歌謡曲を歌った。
いちばん得意だったのは作詞作曲者が不詳で、巷の流したちによって歌い継がれてきた「坊やお空をごらん」である。



また、戦後間もないころのヒット曲「港が見える丘」を必ず歌った。

生まれて初めて出会った天才の上村一夫はときに幼児に見えたり、老人に見えたりする不思議な男だったと作家で演出家の久世光彦が述べている。

21歳の大学生に老成した狂気を感じて、阿久悠は上村一夫を独占した。
浮世絵を描かせようとしたり、歌詞をわたして曲をつけさせたりしていた。

ぼくが詞を書いて渡すと、翌日か翌々日には曲が出来てきて、上村一夫が弾き語りしてくれる。大抵が昼休みの電話交換室の休憩所か、写真部の現像室かの密室で、これがなかなかよかった。


それは目的のない無意味な遊びだったが、将来の作詞家にとっては歌作りの修行となった。
しかし、上村一夫は半年でアルバイトにい来なくなってしまう。

その後も阿久悠は、天才との出会いを忘れることはなかった。
数年後に副業で放送作家の仕事が忙しくなっていた頃、「上村一夫は平凡パンチにイラストを描くはずだから、気をつけて見ておいてくれ」と妻に頼んでいた。

すると3年後、妻がほんとうに平凡パンチに載った小さなカットを発見してくれた。
そのカットの下に、小さく上村一夫と名前が入っていたのだ。

作詞の仕事も始めていた阿久悠は、上村一夫に作曲家として相棒の役割を求めるつもりだったらしい。

上村一夫は「わが友 阿久悠」のなかで、数年ぶりの再会についてこう語っている。

 阿久悠という名の手紙を受け取った。知り合いの中にそんな名の人物はいない。売れていないのに脅迫状でもないだろうと思って封を切った。
「昔、宣弘社時代に共に働いていた深田です…..」という始まりで、「…一度会いたい」と書いてあり、五・六年振りに再会した。
(略)
 宣弘社時代「深田さんはいい人ですね」と私も言わないし、「君はいつかいい絵を描けるよ」と阿久氏も言わない部分が本当の友情ではないだとうか。それ故、再会は非常に嬉しかった。
 人と人との出会いにおいて、「やあ、こんにちは」「ああ、どうもよろしく」というのは嫌いである。ふと気がついた時、そこにその人がいて、いつのまにか親しくなって行く、それが男の出会いではないだろうか。



そんな再会を果たした二人は、なぜか歌ではなく劇画をやることになっていく。
最先端のメディアとして発信能力があり、エネルギーが溢れていた平凡パンチで、『パラダ』というアナーキーな時代劇が始まった。

そこから上村一夫と阿久悠の才能はともに開花し、時代の空気とシンクロして歌謡曲と劇画の分野でそれぞれが、次々に大ヒットを放っていいくのである。

二人が一緒に歌を作ることはなく、上村一夫はそこから劇画の世界に入って売れっ子になり、『同棲時代』『関東平野』などでは原作も手がけて一世を風靡する。


(注)阿久悠氏の発言は、阿久悠著「生きっぱなしの記」(日本経済新聞社)、上村一夫氏の発言は、上村一夫著「同棲時代と僕」(広論社)からの引用です。なお本コラムは 2017年3月28日に公開されました。

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[Extra便]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ