1956年にハリウッドで製作された映画『女はそれを我慢できない』(The Girl Can’t Help It)は、悩殺グラマー女優のジェーン・マンスフィールド主演によるエンターテインメント・コメディである。
主題歌を歌ったリトル・リチャードを筆頭にして、ジーン・ヴィンセント、ファッツ・ドミノ、ザ・プラターズ、そしてエディ・コクランなど、当時の新鮮なロックンロールがワイド・スクリーンで、しかもカラーで楽しめる作品だったことから、次第にカルト映画になった。
映画そのものが評価されることはなく、とくにヒットしたわけでもなかった。にもかかわらず、アメリカ以外の国々、イギリスやフランス、イタリア、ドイツ、そして日本などの若者たちの一部には大きな衝撃を与えた。
テレビが普及していなかったその頃は、レコードやラジオで音楽に触れることができても、生でロックンロールを体験することはできなかった。ところが、この映画のおかげでアメリカのロックンローラーやコーラス・グループが動く姿、演奏するシーンを”色つき”で見ることができたのだ。
ポール・マッカトニーが『ビートルズ「アンソロジー」』のなかで、リヴァプールの映画館で観た映画について語っている。
ぼくらは『女はそれを我慢できない』が好きで、ロックンロールの映画もありだと思っていた。小品のアメリカ映画をよく観に行ったんだ。予算が少なくてそれほどいい出来ではなかったかもしれないが、音楽が使われていたからいつも観に行ってた。
「ビー・バップ・ア・ルーラ」でデビューを果たしたばかりのジーン・ヴィンセントが、この映画で大いに注目を集めた。さらに映画から誕生した新しいスターはエディ・コクランで、これが実質的なソロ・デビューとなった。
もともと製作サイドは、ロックンローラーの象徴としてエルヴィス・プレスリーを出したかったらしいが、要求されたギャラが高額すぎたので、エディが代わりに選ばれたという。
エディはロックンロールのスターという設定で、「トゥエンティ・フライト・ロック」をブラウン管のなかで歌った。これが評判になってエディは翌年、「バルコニーに座って」をヒットさせてスターの座につき、1958年に「サマータイム・ブルース」を発表してロック史に名を残すことになる。
少年時代のポール・マッカートニーがジョン・レノンと初めて会ったのは、1957年7月5日のことだったが、そのときに歌ってみせたのは、ジーンの「ビー・バップ・ア・ルーラ」とエディの「トゥエンティ・フライト・ロック」、それにリトル・リチャードのメドレーだったという。
どれも『女はそれを我慢できない』に関連していた曲で、ポールはそれをきっかけにして、ジョンとともに活動することになり、ビートルズの物語が始まっていく。
映画が公開されてから10年以上過ぎた1968年9月19日。イギリスのBBC2が、〈ハリウッド・ミュージカル・シリーズ〉の一環として、映画『女はそれを我慢できない』を初めてテレビで放映することになった。
ビートルズはその日、夕方からレコーディングを行っていた。早めにスタジオに入って新しい曲を作り始めたポールは、ほかのメンバーが来る前に、「バースデイ」という曲を素早く書き上げた。
そして8時半までには、全員でバッキング・トラックのレコーディングを済ませて、放映時間が近づくと、スタジオから近いポールの家に向かった。それからメンバーとスタッフ、夫人のパティ・ハリスンやオノ・ヨーコまで、一緒にテレビで流れた映画を鑑賞して楽しんだ。
スタジオに戻ったビートルズは明け方までセッションを続けて、わずか1日で「バースデイ」を完成させた。
その頃のビートルズは何かといがみ合うことも多かったが、この日はごきげんな映画を観る楽しみと、観終わってからのハイ・テンションが続いたためか、お互いにアイデアを出し合って、シンプルなロックンロール・ナンバーを仕上げたのである。
この商品の購入はこちらから
この商品の購入はこちらから
●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから