「1971年、広島を最初に訪れた時のことは、心に強く訴えかける体験だった。
そして44年ぶりに広島に戻ることは、同じ様に心に響くものになると私は強く思っている」
2015年7月、ジミー・ペイジは自身のアルバムをプロモーションするために来日した際、広島へと足を運んだ。そのときの会見で語ったのが上の言葉だ。
彼がはじめて広島を訪れたのは、レッド・ツェッペリンにとっての初来日公演が実現した1971年のことだ。ツアーの行程は東京で2回、大阪で2回、そしてメンバーの希望によって選ばれた広島だった。
9月の23日と24日に武道館でのコンサートを大成功させたメンバーたちは広島へと移動すると、27日の朝に原爆ドームと原爆資料館を訪れた。
同行していた音楽評論家の湯川れい子氏によれば、彼らは目を腫らしながら「人間はここまで残酷なことをするのか。そこまで最低の生き物だとは認めたくない。こんな無惨なことをするのは愚かなことだ」と話していたという。
午後には広島市役所を訪問し、市長に被爆者援護資金としておよそ700万円寄贈の目録を手渡した。ツアーの道中を東京で買ったビデオカメラで撮影していた彼らは、その模様を編集してBGMもつけて公開している。
その日の夜、県立体育館には5千人の若者たちが集まった。
当時は東京や大阪以外で海外のミュージシャンによるコンサートが催されるのはめずらしく、レッド・ツェッペリンほど人気のあるロック・バンドが、広島でコンサートをするのはこれが初めてだったのではないかと思われる。
日本で特に人気の高かった「移民の歌」でコンサートの幕が開くと、観客はそれまでに聴いたことのないような轟音に圧倒された。会場の空気は一変し、そこからは怒涛のようなライブが展開する。
多くの若者たちにとってそれは初めてのロックンロール体験となり、レッド・ツェッペリンのプレイは予想を超える熱狂を巻き起こした。
そしてアンコールの「コミュニケーション・ブレイクダウン」では興奮した観客が、ステージ側に押し寄せたために観客の身を案じて、ロバートが演奏を中断して座るようにと呼びかける場面も見られた。
レッド・ツェッペリンがなぜ来日公演に広島を選んだのか、その理由はロバート・プラントが広島市長との会見で発した言葉から読み解くことができる。
「原爆投下は誰が悪いというより、我々人間の仲間が起こしたことです。同じ人間としてその事実にやはり申し訳無さを感じます。そして少しでも苦しんでいる人たちのために自分たちが力になれたらと考えました。音楽は人々に平和と楽しさを与えるものです。その音楽をやっている僕たちが、少しでも力になれるなら、実に光栄だと思います」
広島コンサート全編
マザーシップ~レッド・ツェッペリン・ベスト
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