1966年12月に〈トップ・オブ・ザ・ポップス〉に登場したジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはすべてを変えた。(スティング)
その日、テレビに映し出された黒人ギタリストの姿に、イギリス中の若者たちが度肝を抜かれた。当時15歳だったスティングもその1人だった。
イングランドの北部、ウォールズエンドで生まれ育ったスティングは、ビートルズと出会って以来音楽にのめり込み、いつかギターで成功したいと夢見るようになっていた。
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そんなスティングが夢中になっていたのが、英BBCで毎週木曜日の夜7時半から放送される人気番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」だ。
毎週様々なミュージシャンによる生放送でのライヴがウリのこの番組は、全英チャートに対して音楽メディア以上の影響力を持っていたと言われている。
ジミ・ヘンドリックスが「トップ・オブ・ザ・ポップス」に出演したのは1966年の12月29日、それはジミにとって初めてのテレビ出演でもあった。演奏したのは、リリースされたばかりのデビュー・シングル「ヘイ・ジョー」だ。
そのボーカルはぶっきらぼうで無造作で、かつ、情熱的であからさまに性的であり、三人編成のバンドが嵐のように三分間の曲を演奏している間、テレビの前にいる全国の誰もが、椅子の中で凍りついている姿を、私は想像した。
浮気した妻を射殺した主人公のジョーが、メキシコへの逃亡を図るというストーリーの「ヘイ・ジョー」だが、オリジナルはジミではない。
この歌の成り立ちについては諸説あるが、一般的にはビリー・ロバーツという作曲家が、ガールフレンドのニーラ・ミラーが歌う「ベイビー・プリーズ・ドント・ゴー・トゥー・タウン」と、カール・スミスの同名タイトル「ヘイ・ジョー」、主人公が妻を殺すストーリーの「リトル・セイディ」という民謡の3曲を組み合わせて作ったとされている。
この曲をジミに薦めたのは、当時ジミのプロデュースをしていたアニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーといわれている。
2人が出会ったのは、テレビ出演からおよそ5ヶ月前の1966年7月頃。ワシントン州シアトル出身のジミは、ニューヨークのカフェ・ワ?というクラブを音楽活動の拠点としていた。
最初にジミの才能に魅せられたのは、キース・リチャーズのガールフレンドだったリンダ・キースだ。リンダはジミをブレイクさせようと奔走し、ストーンズのマネージャーだったアンドリュー・オールダムなどに掛け合ったという。そうしてリンダの仲介により、ジミが紹介されたのがチャスだった。
チャスは、ジミと同じクラブに出演していたティム・ローズの「ヘイ・ジョー」がお気に入りだったという。そしてこの歌のロック・バージョンを作りたいと思っていたチャスは、ジミこそがその役にふさわしいと思うのだった。ただし、こちらについても諸説あり、キース・リチャーズの自伝にはこのように記されている。
俺はティム・ローズが歌っていた「ヘイ・ジョー」のデモテープ・コピーを持っていたんだが、それもリンダは持っていった。あれをジミのいたロバータ・ゴールドスタイン宅へ持っていって聴かせた。ロックンロールの歴史的事件だ。つまり、俺から直接じゃないが、ジミは俺からあの歌を奪ったってことだ。
いずれにせよ、「ヘイ・ジョー」を世界的なロック・ナンバーへと押し上げたのはジミ・ヘンドリックスに間違いない。その後、ディープ・パープルやパティ・スミス、ソニック・ユースなど幅広い世代によって「ヘイ・ジョー」はカバーされている。
ところで、「トップ・オブ・ザ・ポップス」のジミを観て衝撃を受けたスティングはその後、なんとしても生で観ようと年齢を偽ってジミのステージを観に行ったという。そしてテレビで観たとき以上のショックを受けるのだった。
その夜は、ベッドに横たわっても私の耳はがんがん唸り続けていた。世界の見方が大きく変わった。
その日からスティングはジミのギターを真似しようと研究と練習に明け暮れ、やがて「パープル・ヘイズ」が弾けるというのが名刺代わりになったという。
ジミに夢中になったのはスティングだけでなかった。多くの若者たちがジミヘンのようなギターを弾きたいと憧れた。ジミ・ヘンドリックスのテレビ初出演は、それまでのギターの概念を一変させるほどの破壊力をもたらすのだった。
引用元:
『スティング』スティング著/東本貢司(PHP研究所)
『キース・リチャーズ自伝 ライフ』キース・リチャーズ著/棚橋志行訳(楓書店)
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