1948年から始まった、白人とそれ以外の人種とを差別する南アフリカの隔離政策、アパルトヘイト。
こうした差別は南アフリカに限らず、アメリカをはじめ他の先進国でも見られたが、時代の流れとともに人種差別に反発する声が大きくなると、各国で少しずつ改善されていくようになった。
しかし南アフリカでは一向に差別がなくなることはなく、世界中から非難されるようになる。
そうした流れの中で音楽的なボイコット、要はアパルトヘイトを廃止しない限り南アフリカでコンサートをしない、という動きが広がっていった。
1984年にはクイーンが、イギリスのミュージシャン組合から南アフリカでの公演を禁止されていたにも関わらず、コンサートを実現させているが、その結果として彼らは国連のブラックリストに載るという憂き目にあっている。
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そんなアパルトヘイトが、ネルソン・マンデラが大統領になったことによって廃止されたのは1994年のことだ。
これによってようやく世界中のミュージシャンたちが南アフリカに行き、堂々とコンサートをすることが出来るようになったわけだが、真っ先に南アフリカでのコンサートを実現させたのはホイットニー・ヒューストンだった。
マンデラから直接のオファーがホイットニーに届いたのだ。
1963年にアメリカのニュージャージー州で生まれたホイットニーは、プロのシンガーだった母親による厳しいレッスンにより、幼少期から類まれな歌唱力を身に着けていた。
1985年にデビューを果たすと、7曲連続でシングルチャート1位を獲得し、ビートルズが保持していた6曲連続という記録を更新する快挙を成し遂げる。
そんな彼女のキャリアが頂点に達したのは1992年、この年に公開された映画『ボディガード』とともに、主題歌の「オールウェイズ・ラヴ・ユー」が世界的な大ヒットとなった。グラミー賞をはじめとして様々な賞を総なめにし、ホイットニーはこの年にもっとも成功したアーティストとなった。
そんな世界的な人気シンガーであるホイットニーとマンデラの間にはひとつの接点があった。
1988年の6月にロンドンのウェンブリー・スタジアムで開催され、当時はまだ投獄されていたマンデラの釈放を求めるコンサート、フリー・マンデラに出演しているのだ。
このコンサートにはホイットニーのほか、エリック・クラプトンやジョージ・マイケル、スティーヴィー・ワンダー、スティングなどが参加している。
ホイットニーの実力や人気はもちろん、こうした接点もあってのオファーだったのだろう。
南アフリカでのコンサートは11月の8日、12日、19日と3回に渡って開催され、20万人以上もの動員を記録した。
それまで海外からミュージシャンがやってきてコンサートをすることなど、ほとんどなかった南アフリカの国民にとって、ホイットニーのコンサートは国が新しい時代を迎えたことを改めて実感させるものとなった。
2018年に公開され、ホイットニーの真実に迫ったドキュメンタリー映画『ホイットニー~オールウェイズ・ラヴ・ユー』の中では、この南アフリカでのコンサートがハイライトのひとつとして描かれている。
映画『ホイットニー~オールウェイズ・ラヴ・ユー』公式サイト