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南アフリカで公演したことにより国連のブラックリスト入りとなったクイーン

2018.08.21

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1981年に南米でのツアーを成功させたクイーン。
これでユーラシア、北アメリカ、南アメリカ、オセアニアの4大陸でツアーをしたことになり、残す大陸は南極を除けばアフリカだけとなった。
となれば、アフリカでもツアーをしたいとメンバーが思うのは当然のことだった。

そして1984年、クイーンのもとに南アフリカ共和国のリゾート地、サンシティにあるホールからコンサートをしてほしいという依頼が入る。

しかし南アフリカでライブをするのは、南米でツアーをする以上に難しかった。
なぜなら、クイーンの入っていたイギリスのミュージシャン組合が南アフリカでの公演を禁止していたからだ。
これは南アフリカの人種隔離政策、アパルトヘイトに対する反発の意思によるものだった。

クイーンのメンバーも、アパルトヘイトには当然反対だった。
しかし、だからといって南アフリカで公演しないことが本当に正解なのか、自分たちの音楽を聴きたい人がいるのに、それが政治的な理由で妨げられていいのだろうか。
ブライアン・メイによれば、メンバーでこの問題に対して真摯に向き合い、慎重に話し合ったという。

「南アフリカでコンサートすること自体のモラルについて、僕らも充分考えたあげく、やる価値ありという結論に達した。
僕らのバンドは決して政治的じゃない。僕らの音楽を聴きに来てくれる人たちがいれば、クイーンはどこででもやる」


1984年の7月、クイーンが南アフリカで公演を行うことを発表すると、反アパルトヘイト団体をはじめ、様々な団体やメディアが彼らに抗議した。
南アフリカへの文化的ボイコットが世界的に行われる中、クイーンは組合の規則を破ってまで金儲けをしようとしている、というふうに見られたのだ。

クイーンによる南アフリカ公演は10月5日から始まった。
ところがツアーはとても大成功とはいえなかった。というのも、初日が始まって15分ほどが過ぎたところでフレディがのどの炎症で歌えなくなってしまい、12公演のうち5公演が中止となってしまったからだ。

思いもかけず時間の空いてしまったメンバーだが、その時間を彼らはサンシティという街やアパルトヘイトの現状を知ることに費やした。
例えばブライアンの場合は、ソウェトという街で開催される、ブラック・アフリカン賞の授賞式でプレゼンター役をしてほしい、という依頼を引き受けている。
サンシティ側は「街の外に出れば身の安全は保証できない」と忠告したが、ブライアンは喜んで授賞式へと向かった。
会場でブライアンを待っていたのは、現地の黒人ミュージシャンらによる温かい歓迎だった。

「あの夜のことは絶対に忘れられない。
だから僕はその時、いつの日か『クイーン』がソウェトの街に、コンサートで戻って来る約束をしたんだ」


ブライアンが授賞式に出たほか、目や耳の不自由な子供たちの通う学校が資金難であることを知ると、メンバーは南アフリカ限定のライヴ・アルバムをリリースし、その売上を学校に寄付することを決めるなど、クイーンはコンサート以外にもいくつかのアクションを起こした。


公演が終わり、イギリスへと帰国した彼らを待っていたのは、ミュージシャン組合からの除名勧告だった。
そこでブライアンは会合に足を運び、自分たちの行動について弁明する。

「僕が委員会のメンバーに訴えたのは、反アパルトヘイトを声高に唱えて彼らを遠ざけることより、僕らが現地でやったことのほうがずっと効果的だったということだ」


地元の新聞に「アパルトヘイトをなくすべきだ」という自分たちの発言が掲載されたこと、地元のミュージシャンたちに感謝されたことなどを伝えると、組合はようやく彼らの行動に理解を示した。
違約金こそ発生したものの、組合からの除名は免れたのだった。

しかし南アフリカで公演したことによって、国連はクイーンをブラックリストに加え、世間からの批判もさらに苛烈なものとなる。

反アパルトヘイト団体からの抗議デモ、そしてレコード・セールスの低下、さらには巷で流れるバンド解散の噂。
この時期のクイーンは様々な問題を抱えていたが、翌年に彼らはそれら全てを解決してみせた。
それが20世紀最大のチャリティー・イベント、ライヴ・エイドへの出演である。



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