まずは…
あの“エンケン”こと遠藤賢司(純音楽家)が生前に語った言葉をご紹介します。
「プロテストソングがどういう歌かは全部聞いたわけじゃないからわからないけどね…いい歌もあったんじゃないかな。一生懸命やってた人もいたし、きちっと一人で戦っていく要素も含めて良質な歌もあったよね。そういう意味じゃ岡林信康の“チューリップのアップリケ”と“手紙”、あと美輪明宏の“ヨイトマケの唄”は本当のプロテストソングだと俺は思ってる。」
この「チューリップのアップリケ」という歌は、岡林信康(当時22歳)がデビュー翌年の1969年に発表したもので、当時は2ndシングル「流れ者」のB面曲として収録されていた。
クレジットには作曲:岡林信康、作詞:岡林信康・大谷あや子と記されている。
この大谷あや子という女性は誰なのか?
作詞家や作家ではなく、後にも先にも残した作品はこの一曲のみだという。
彼女がこの曲の“共作者”としてクレジットされた経緯とは?
この歌は一体どのようにして生まれたのだろう?
1966年、19歳だった岡林は同志社大学の神学部に入学する。
実家が教会だったということもあり、それまで熱心なキリスト教信者であったが、この頃から父親の考え方に疑問を感じるようになり、社会主義運動に身を投じるようになる。
そこで出会ったフォークシンガー高石ともやの影響を受けてギターを弾くようになったという。
「日本が抱えている色々な矛盾がひしめいている場所に身を投じて生きてみよう!労働者として生きながら同和問題を考え続けよう!」
そう決意を固めた彼は、1968年に2年間通った大学を辞めて琵琶湖干拓地入植者として建設工事現場で働き始める。
そのきっかけとなったのは、前年に訪れた山谷の簡易宿泊所で寝起きしながら日雇いで働いた経験だったという。
「要するに俺は山谷も他の労働者もたいして変わらんと思ったわけよ。そこで自分の住んでいる近江八幡市の現実に目を向けてみたんです。そして俺は同和問題というのを避けて通ることが絶対にできないことに気づいたんです。この問題に関わることが生きることだ!みたいな感じでね…」
彼はこの頃から市民運動にも参加するようになり、歌の持つ力とリアリティーに惹かれて、フォークミュージックにのめり込んでゆく。
そんな時期に生まれた歌がデビュー曲の「山谷ブルース」であり、この「チューリップのアップリケ」だったという。
彼の著書『バンザイなこっちゃ』というエッセイ集にはこんなことが綴られている。
「あの歌は当時ボランティア活動をしていた養護学校の生徒の詞が原型となっているんです。ある日、そこの先生から見せていただいた生徒の作文に、いくつかの印象的なフレーズがありました。」
“チューリップのアップリケがついたスカート持ってきて”
“うちやっぱり お母ちゃんに買うてほし”
“うちがなんぼ早よ起きてもお父ちゃんはも靴トントンたたいてはる”
大谷あや子という生徒が書いたこれらの言葉を繋ぎあわせて、岡林は貧しさを切実に訴えかける少女の心情を一篇の歌にした。
それは貧しさへの同情よりも怒りが込められた強烈なプロテストソング(抵抗の歌)だった。
「これは断じて“可哀想な歌”なんかじゃない。“悲しみの歌”なんです。悲しみの根底には怒りがある。この歌には両親の離婚の原因となった貧しさへの怒りが歌われているんです。どうしようもない貧しさから脱出することを妨げている“壁”に対する怒りがあるんです。」
こ歌は発表からほどなくして放送禁止となる。
その理由は“父が靴職人”という歌の設定が、被差別部落の家であることを暗示しているということだったらしい…
<引用元・参考文献『フォーク名曲事典300曲』/富澤一誠(ヤマハミュージックメディア)>
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