1960年代、アメリカでは若者たちの間でフォークソング・ムーブメントの風が吹き荒れていた。ベトナム戦争に対しての新しい反戦歌が次々に作られ、ジョーン・バエズ、バフィー・セントメリー、フィル・オクス、トム・パクストンなど、若いフォークシンガーたちは頭角をあらわしていた。
そんな中、ボブ・ディランの「Blowin’ in the Wind(風に吹かれて)」は、時代を象徴する曲として多くの人々から支持された。
1963年5月に「風に吹かれて」をリリースしたディランは、同年8月にジョーン・バエズに誘われてワシントン大行進に参加し、特設ステージで「Only a Pawn in Their Game(しがない歩兵)」を歌った。
黒人の公民権運動活動家メドガー・エヴァーズが、家族の見ている自宅前で射殺され、犯人の白人が陪審員全員が白人の法廷で“無罪”になるという実際の事件をもとに、ディランは「しがない歩兵」を作り、その中で犯人もチェスゲームのポーン(歩兵)に過ぎないと歌ったのだ。
当時、公民権運動で歌われていた「We Shall Overcome(勝利を我等に)」も含め、それらの歌はプロテストソングと呼ばれた。
「風に吹かれて」のヒットにより、「プロテストソングの旗手」として祀り上げられたディランだったが、「正面を切って歌っても通用しない」といち早く見抜くと、一時期からプロテストソングを歌わなくなった。
政治的なメッセージに対して“正面を切る”という手法を変えたディランと谷川俊太郎には、ある種の共通点があると言える。小室等を筆頭に、詩人・谷川俊太郎が日本のシンガーソングライター与えた影響は計り知れない。
若き日の中島みゆきも、大学の卒論に「谷川俊太郎論」を書いたほど影響を受けていたという。当時、中島は札幌では有名なフォークシンガーとして、「コンサート荒らし」と呼ばれるほどの存在だった。
1972年5月28日、ニッポン放送主催の全国フォーク音楽祭全国大会に、北海道地区代表として出場する。大会の1週間ほど前に、谷川俊太郎の「私が歌う理由」という詩を渡され、それに曲をつけるというのが課題になっていた。その詩を目にした時に、中島は大きな衝撃を受けた。
「天狗になって舞い上がっていた自分が、谷川さんの詩を見た瞬間にガーンとやられたと思いました」
何のために歌っているのか? 歌とは何なのか? ということを、強く自分に問い詰め始めた中島は、最終審査まで昇り詰め、プロデビューのチャンスを与えられるも、辞退することとなる。
その後の作風、そして歌手としての運命を決めたのは、この一篇の詩との出会いによるものだった。
その後、大学で教員課程を取っていたため、中島は母校の柏葉高校で教員実習を行う。国語の実習にもかかわらず、壇上に立つと、生徒たちに向かってこんな挨拶をした。
「私は将来、シンガーソングライターになるつもりです。実習に来たのは単位を取るためです」
そして、ギターを取り出して歌い出した。
谷川俊太郎の詩にショックを受け、自らを追い詰めて、一度はデビューを断念したが、プロの歌手になるという情熱は失っていなかった。
そして1975年、ヤマハが主催するポプコン(ポピュラーソングコンテスト)での入賞を経て、念願のレコードデビューを果たすこととなるのだ。
<引用元・参考文献『プロテストソング』小室等・谷川俊太郎(著)/旬報社>
「自選 谷川俊太郎詩集」
「プロテストソング」
「私の声が聞こえますか」
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執筆者
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