みんな馬鹿げたラヴ・ソングに
飽き飽きしていると
君は思っているようだけど
僕のまわりを見渡す限り
馬鹿げたラヴ・ソングで
世界を満たしたいと思ってる
人たちもいるんだよ
以前のコラムで、「心のラヴ・ソング」の冒頭の歌詞をそう訳しました。「馬鹿げた」と訳したのは、<silly>という単語です。
「心のラヴ・ソング」の原題は「Silly Love Song」。このタイトルは、ジョン・レノンの「ポールが書いたのは、馬鹿げたラヴ・ソングばかりさ」という発言からつけられた、とも言われています。そしてコラムではシンプルに、馬鹿げたラヴ・ソングと訳したわけです。
しかし、<silly>という言葉は、かつて、まったく違った意味で使われていたことがわかりました。そして、それは驚くべきことに、「聖なる幸福」という意味だったのです。
何故、そんな意味の転換が起こったのでしょうか。実は、日本語でも似たような現象が見られます。
たとえば<おめでとう>。この言葉は、元々、<愛でる>という言葉と、とてもという意味の<甚し>(いたし)が一緒になったものと言われています。
(大変に心ひかれる)(とても素晴らしい)
そんな意味の言葉から、おめでとうはできているのです。しかし、この言葉は、逆の意味にも使われるようになりました。
「おめでたい奴だな」
そう言う時の<おめでたい>は、物事の見通しが甘い、楽観的過ぎる、善良だが現実が見えない、といった皮肉な感情が潜んでいます。
無邪気=イノセントでいられなくなった時、人は斜に構えて生きるようになり、言葉の意味も変えてしまうのでしょう。
さて、話を<silly>に戻しましょう。
古い時代の英語は、まさに古い時代のドイツ語と兄弟の関係にあったわけですが、ドイツ語の<selige>は「浄福」と訳されています。
ゲーテは「浄福への渇望」という詩を認め、フィヒテは「浄福なる生への響き」と題された講義をしています。
<浄福>とは、現実的、物質的な一時の幸福とは正反対の、永遠の幸福を意味する言葉でした。そして、そんな幸福を夢見ることに疲れた時、人は言葉の意味を変えていったのです。
それに、どこが悪いっていうんだい
知りたいものさ
さあ僕はまた歌う
愛してる
愛してる
愛してるとね
ポールは無邪気に愛をたたえ、歌います。そして「心のラヴ・ソング」は、これまでと違った意味に聴こえてくるのです。
みんな永遠の愛の歌なんて
存在しないと
思っているようだけど
僕のまわりを見渡す限り
永遠の愛の歌で
世界を満たしたいと思ってる
人たちもいるんだよ
それとも、「心のラヴ・ソング」をそんなふうに解釈することは、おめでたいことなのでしょうか。。。
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