ミシェル・ポルナレフ。
彼の名前や、その特徴的な風貌を知らない人でも、彼が書いたメロディーは耳にしたことがあるはずだ。中でも、彼が1972年に発表した「愛の休日」は、様々なシーンで今でも使われている。
日本人の僕らにはピンとこないが、ポルナレフという名前は、彼が生まれ育ったフランスでは、不思議な響きがするらしい。そう、その名前は明らかに、フランス人のそれではないからである。
実際、デビューにあたり、プロデューサーは名字を変えることを提案している。だが、ミシェルは名前を変えることに対して、断固拒否をしたという。
もしかしたら、その思いは、父親ができなかった生き方をしたい、と若き日のポルナレフが考えたからかも知れない。彼の父レイブ・ポルナレフは、1899年、旧ロシアで生まれたユダヤ系ウクライナ人だった。
彼はその後20代になると、迫害から逃れる意味もあり、フランスに渡り、ピアニスト、作曲家として活躍している。レイブの書いた曲は、エディット・ピアフやイブ・モンタンに歌われ、ヒット曲となるが、そのクレジットは、ポルナレフではなく、レイブ・ポルという名前であった。
父レイブがダンサーだったシモーヌ・ラーヌと出会ったのは、40代を過ぎた頃である。ミシェルが生まれたのは、レイブが45歳の時だった。
ミシェルは、小さな頃から英才教育を施された。5歳で、国立の音楽院であるコンセルヴァトワールに入学。父は、ミシェルがクラシックの道に進んでくれることを疑わなかった。
だが、ミシェルが12歳の時である。1956年。ミシェルが12歳だった年の夏、エルヴィス・プレスリーが「ザッツ・オールライト・ママ」でデビューした。少年の興味はすぐロックンロールに向かい、彼はピアノを捨て、ギターを手ことになる。
ミシェル・ポルナレフのレコード・デビューは、1966年。彼が22歳の時だ。ロンドンで録音された4曲入りの「ノンノン人形」は大ヒットする。
ミシェルがエルヴィスを聴いてから10年後のことである。そして興味深いことに、このロンドン録音のセッションで、ギターとベースを弾いていたのは、まだレッド・ツェッペリンを結成する前のジミー・ペイジ、そしてジョン・ポール・ジョーンズであった。
日本で彼の人気を決定づけたのは、「シェリーに口づけ」だった。原題に口づけを意味する言葉は入っていないのだが、「テュ、テュ」と歌われる印象的なリフから、担当ディレクターがつけた日本語タイトルは、キャッチーだった。そして金髪の巻き毛と大きなサングラスというルックスも、当時の日本では斬新にうつったのだろう。
だが、サングラスに関しては、ファッションだけが理由ではなかった。ミシェルは、白内障を患っていた。実際、失明一歩手前の時点で、手術を受けたことがわかっている。
そして1972年。日本で彼は絶頂期を迎える。この年、「愛の休日」が発売され、初来日を果たしているのだ。
ところで、ミシェル・ポルナレフの楽曲は、「愛の休日」をはじめとして、作詞家としてジャン・ルー・ダバディという名が記されている。
覚えているだろうか。サッカー日本代表を率いたフランス人監督フィリップ・トルシエの通訳として活躍した、フローラン・ダバディの父親である。
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