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<音楽史のレジェンド>日本語のロックをバックビートでうたった南正人のアルバム『回帰線』

2024.01.06

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2021年1月7日の夜、シンガーソングライターの南正人が横浜市内のライヴハウス「THUMBS UP」で、本番中に意識を失って亡くなったというニュースが、音楽関係者の間をかけめぐった。
プロとしての音楽活動が50年を超えていたレジェンドは、享年76にして帰らぬひとになったのである。

そのことをぼくが知ったのは、湯川れいこさんが投降したTwitterからだった。


1971年の7月にファースト・アルバム『回帰線』を発表した南正人”は、日本のロックが黎明期だった時期に、日本語の歌詞をバックビートでうたう歌唱法を定着させたという意味で、はっぴいえんどと並ぶ先駆者のひとりである。

その年の夏にFMラジオから流れてきた南正人の「こんなに遠くまで」を耳にしたとき、どうしてだったのかはよく分からないが、自分のなかでは静かな衝撃がいつまでも消えなかった。

そのことが気になってアルバム『回帰線』を購入して聴いてみると、バック・バンドの演奏とアレンジがいいことに驚かされた。
とくに印象に残ったのはドラムとベースで、彼らが打ち出してくるビートが力強いこと、しかも心地が良いことにも気づいたのだ。

リズム隊としてレコーディングに参加したのは、翌1972年にキャラメル・ママを結成するベースの細野晴臣と、ドラムの林立夫のふたりだった。

アコースティック・ギターはこの時代から、はやくも名手と謳われていた石川鷹彦だ。
そしてもう一人、六文銭の安田裕美がエレキギターを弾いていたが、彼はまもなく井上陽水のサポートで活躍していく。

後にサディスティック・ミカ・バンドのベーシストになる後藤次利は、このアルバムで2曲だけ、印象的な音色のエレキギターで不思議な存在感を示していた。

また、アシッド・ミュージックを思わせる「果てしない流れに咲く胸いっぱいの愛」には、後に伝説のグループとなっていった裸のラリーズの水谷孝が参加している。

レコーディングを受け持ったのは吉野金次、日本で最初にフリーになって独立し、ジャンルの壁を超えて活躍した伝説のエンジニアである。
サウンドがクリアーなだけでなく、どの曲もグルーヴ感に満ちていたのは、吉野の感性によるものだろう。

このアルバムの発売から少し遅れて、はっぴいえんどの『風街ろまん』が11月に発表された。
吉野はそのアルバムをミックスしたことで、新しい時代の音楽をつくるエンジニアとして知られていく。

ぼくはこのアルバムを繰り返し聴いていて、日本のロックに大きな希望が持てると確信した。

この南正人というミュージシャンは何者なのか、ぼくはそれを調べるために音楽雑誌などに目を通してみた。
ところがインタビューや特集といったものは見つけられず、ほとんど何の手がかりを得ることも出来なかったのだ。

そこでロックやフォークに詳しい大学の友人に、どんな人物なのかを訊ねてみることにした。
彼に調べてもらって分かったのは、東京外語大学に在学していた1960年代にアメリカからメキシコにわたった後、ヨーロッパを経由して帰国するまで、2年以上も放浪していたということだった。

その後は自作の歌を唄うようになって、1968年に遠藤賢司や高田渡も参加した〈アゴラ〉というフォーク団体の仲間たちと、京都の第3回関西フォークキャンプに出演して注目された。
そこでは初期の代表作となる「ジャン」や、「こんなに遠くまで」などを唄っていたという。

1969年に設立されたばかりの新レーベルだったRCAから、シングル盤の「ジャン/青い面影」を発売したのは11月だった。

南正人は1970年5月には第2弾シングルとして、「ヨコスカブルース/赤い花」を発売している。
これが一部の音楽ファンの間で話題になったらしい。
だがそれ以上のことは、友人の話でもわからなかった。



1970年8月、岐阜県椛の湖のほとりで第2回中津川フォークジャンボリーが開催されたが、そこにも南正人は出演していたという。
はっぴいえんどがインディーズのURCから、ファースト・アルバム『はっぴいえんど』を発表したのも8月である。

おそらくはその頃からは、フォークやロックに関心を持つ音楽ファンの間で、存在を知られるようになったのではないか。

この時代にアコースティックギターを弾いて唄うシンガー・ソングライターは、ほぼ自動的にフォークに分類されていた。
そんななかで、南正人の歌唱法には独特の重さがあった。
というのも、日本語の母音を巧みにビートに重ねていたからである。

フォーク歌手のうたい方とは、根本的に何かが違っていたのだ。

ぼくはサウンドも含めて、「これが日本のロックだ」と思った。
『回帰線』で素晴らしいドラムを叩いた林立夫は、レコーディングに参加した経緯について、音楽仲間のつながりからだったと自伝のなかで語っている。

南正人さんは義兄の家で紹介された。アルバム『回帰線』のレコーディングも、その流れで僕に話が来たのだと思う。そういう“仲間”のつながりから、だんだんレコーディングに呼ばれるようになっていったのがこの頃。


林立夫は『回帰線』の後に、加藤和彦から声をかけられて、吉田拓郎のアルバム『元気です』のレコーディングにも参加している。

「結婚しようよ」は確かパーカッションではなく、スタジオの椅子を叩いたと思う。このレコーディングはたまたまトノバン(加藤和彦)がきっかけだけれど、それ以外のフォークのレコーディングはほぼ細野さんのつながりだったはずだ。


ところで、ほぼ無名に近い南正人のシングルとアルバムを、メジャーのRCAビクターが発売したのは異例なことだった。

それはおそらく、ディレクターの榎本襄が1970年から71年にかけて、無名の新人だった藤圭子を大きくブレイクさせて、驚異的なヒットを連発した実績があったことで、実現できた企画だったのだろう。

なお後年になってからだが、榎本は藤圭子のことを、「演歌歌手ではなく、ロック・シンガーとして一流だった」と評価していた。
だからフォークソングのシーンでも無名に近い南正人に関して、ロック・シンガーとして光るものを見出して、アルバム発売に踏み切ったのではないかと想像できる。

ぼくは『回帰線』を繰り返し聴いているうちに、吉祥寺のライブハウス「OZ」に足を運ぶようになった。
それから1年ほどは追っかけのようにして本番のライブだけでなく、リハーサルのスタジオにも通った。

当時はまだバンドのメンバーが固定されていなかったけれども、エレキギターは夕焼け楽団の井上憲一が担当するようになった。
ベースもいつしか、夕焼け楽団の恩蔵隆に落ち着いた。

ドラムはなかなかメンバーが固定されず、後にパーカッショニストとして活躍する斎藤ノブが加わっていた時期もあった。

しかしイントロが始まってビートを確認しながら、グルーヴをつくりだそうとしてみても、なかなかうまくいかなくて歌が始まらないことが日常茶飯事だった。

身体を揺らしながら待っていた観客は、次第にしびれを切らしてしまうことになる。
ぼくは1年ほどが過ぎた頃になって、大学を出て自分で生活をする準備に入らなければならなくなった。
そこからは自然にライブに足を運べなくなってしまった。

その頃のライブについて、ロフトのオーナーだった平野悠氏が、追悼の文章でこう語っていた。

彼とは反体制思想、ベトナム反戦など問題意識を共有していた。ライブでは、井上憲一さんのリードギターに乗せてひたすら歌い続けた。1曲に30分以上かけることも珍しくなく、ライブが始まると「何時に終わるのだろう?」と気を揉んだ。ライブ不毛の時代だった。客席に10人もいないことが少なくなかった。


ぼくもアルバムが出れば購入し、ときにはライブに足を運ぶこともあった。
だが南正人は生涯を通して、メジャーに対しては徹底して背を向けて生きたように思う。

そしてギターを手にして日本中でうたうことによって、74歳の生涯を全うしたのであろう。

ところでこれからも忘れられることなくうたい継がれる作品は、浅川マキがカヴァーして広めた「あたしのブギウギ」になるのだろうか。(浅川マキに発見されて歌い継がれてきた日本語のブルーズ、南正人「あたしのブギウギ」
それともこの先に誰か、「こんなに遠くまで」をうたい継いでくれる歌手が表れるのか、様子を見ていきたいと思っている。



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