小林旭に「北帰行」を歌わせようと思いついたのは、コロムビア・レコードのディレクター、五木寛之の小説「艶歌」や「海峡物語」に登場する<艶歌の竜>のモデルとなった馬淵玄三である。
「面白い歌があるぞー、新宿のうたごえ喫茶だぞ-って馬渕さんが言いながら、昼間に二人でぶらぶらお茶を飲みに行って聴いた。で、あぁ、良い歌だ、良い歌だって、レコーディングしたんですよねぇ」(小林旭)
馬淵は若者たちの間で歌われていた「北帰行」を、デビューからずっと手がけていた小林旭に歌わせて、レコード化しようと企画を立てた。
ところがそれよりも一歩早く、コーラス・グループのボニー・ジャックスが歌った「旅の唄」が、キングレコードから発売になった。それは作者不詳のまま歌い継がれて、歌詞もタイトルも変わってしまった「北帰行」だった。
「先を越された」と思った馬渕だったが、小林旭の歌の魅力で勝負できると思って、そのままレコーディングの準備を進めた。すると「旅の唄」が、急に発売中止になったことを知るのである。
若かりし日に宇田博が幻の国となった満州国の旅順で書いた「北帰行」は、人づてに歌い継がれるなかで、少しずつ歌詞もメロディも変わっていった。
宇田は旅順高校を退学させられた後、内地へ戻ると旧制一高に入学し、そこから東京大学へと進んだ。そして卒業後は映画会社を経て、ラジオ東京(現・TBS)に入社していた。
18歳の時に作った自分の歌が、巷で歌い継がれていることに、宇田は早くから気づいていた。そして寮歌として学生たちに歌われている分には、歌詞が変わってもかまわないと思っていた。
しかし、ボニー・ジャックスの「旅の唄」のことを知って、レコードとして流通させるならば、オリジナルの歌詞で歌ってほしいと思った。そこで自ら著作者だと申し出たのである。
作者が判明したことを知って、馬淵はすぐ宇田のもとを訪れた。小林旭の歌で「北帰行」をレコード化するために、許諾を得ることと歌詞の一部変更が目的だった。
馬渕は5番まである歌詞を3番まで凝縮させて、固い表現のところを耳で聞いても分かるように直してもらった。
浅丘ルリ子が相手役を務めた小林旭の映画『渡り鳥』は、1959年(昭和34)から62年にかけて一世を風靡したシリーズで、以下の全8作が次々に作られた。
『ギターを持った渡り鳥』
『口笛が流れる港町』
『渡り鳥いつまた帰る』
『赤い夕陽の渡り鳥』
『大草原の渡り鳥』
『波濤を越える渡り鳥』
『大海原を行く渡り鳥』
『北帰行より 渡り鳥北へ帰る』
日活サイトより
1962年の正月に封切られた『北帰行より 渡り鳥北へ帰る』の主題歌になった「北帰行」は、馬渕の思惑通りにヒットしてロングセラーを記録した。「北帰行」は、シリーズ最終作となった映画にふさわしい歌となったのだ。
「“渡り鳥~”っていうのは、何となくアメリカ映画『シェーン』を基調にしてスタートしただけに、西部劇っていう狙いで、常に広い荒野を旅するさすらい人‥‥‥そんなロマンめいたものが欲しいなと‥‥‥なんかもう一つ自分にはまってくるものが無いなぁという感じを持ち始めていた。
そんな時期と『北帰行』がちょうどぶつかったというのかな。まぁ若かったせいもあるんですが、それ以上のことを深く追求もしないで、ただ自分がジョン・ウェインか、それこそアラン・ラッドにでもなったような気分で『北帰行』を歌っていた」(小林旭)
宇田は生前に、「葬式にはお経はいらない。このテープを流してくれ」と、一本のカセットテープが入った封筒を手渡していたという。それは小林旭の「北帰行」だった。
中国東北部に日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げて建国された満州国、夢と理想を求める若者にとって幻の国となった北の地への思いには、言葉には言い尽くせない複雑なものがあった。
祖国の日本を離れて、愛しき人と別れて、一人旅する男の帰る”北”とは、夕日が地平線に沈む満州だったのかもしれない。
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