日本で最初にヒットしたロックンロール・ナンバーと言われているのが、1958年11月に発売された「ダイナマイトが百五十屯」である。
歌ったのは、当時23歳の映画俳優だった小林旭。作詞は脚本家でもある関沢新一、作曲したのが後に演歌の大御所となる船村徹だった。
1958年9月にコロムビアからデビュー・レコード「女を忘れろ」(作曲/船村徹)を出した小林旭は、シングル第2弾となったこの曲のヒットをきっかけにして、”爆弾男”すなわち”ダイナマイト・ガイ”のニックネームが付けられていく。それを短く縮めて”マイトガイ”と呼んで、日活が一気に売り出したのは翌1959年からのことである。
主演した映画『二連銃の鉄』のなかで、「ダイナマイトが百五十屯」が挿入歌に使われたのは4月。続いて7月にも、”マイトガイ”が活躍する映画『爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ』が作られた。
映画『二連銃の鉄』
”マイトガイ”が定着した小林旭の人気が爆発するのは、8月の『南国土佐を後にして』に続いて、9月の『二階堂卓也 銀座無頼帖 銀座旋風児』、10月の『ギターを持った渡り鳥』と3本の作品が連続ヒットしたことによるものだ。
そこから”マイトガイ”の人気が急上昇し、小林旭は石原裕次郎と並ぶ大スターになっていく。
勇ましくもやけっぱちな恋の歌、「ダイナマイトが百五十屯」の着想を得たと思われる楽曲は、2年ほど前にアメリカでヒットした「16トン(Sixteen Tons)」だろう。
1955年11月に発売された「16トン」は、3週間で100万枚のシングル盤を売り上げて、当時のアメリカでは最速でミリオン・セラーの記録を達成する爆発的ヒットになった。
これをヒットさせたテネシー・アーニー・フォードは、20才でシンシナチ音楽学院に入学し、クラシック音楽と声楽を学んだ後に放送局でアナウンサーとして働いていた。
やがて太平洋戦争が始まって空軍に召集されると、爆撃部隊に所属したことから、B-29爆撃機に搭乗して日本への空爆に参加したという。
フォードは終戦後、カルフォルニア州のラジオ局でアナウンサーとして働き始めて、カントリー音楽の番組で人気を得ていった。そしてロサンゼルスに本社を構えるキャピタル・レコードと契約し、自ら歌うようになって、「ショットガン・ブギ」などをヒットさせる。
やがて黎明期のテレビに進出して、パーソナリティとして有名になるが、1954年に久しぶりで吹き込んだ「16トン」がカントリー・チャートで10週連続1位、全米チャートでも6週連続1位を記録したのだ。
1946年にカントリー・シンガーのマール・トラヴィスが発表したこの曲は、貧しい炭鉱夫の過酷な生活をテーマにしたワークソング、リアルなメッセージを持つ労働歌だった。ケンタッキーの炭鉱で石炭を掘っていた父親が、いつも口にしていた言葉から、マールは歌を作っている。
男というのは泥で出来てるらしい
だけど貧乏人は筋肉と血で出来てる
血と肉、骨と皮
おつむはからきしでも体は頑丈だ
毎日16トンを積み込んで何になる?
何年やっても借金がかさむばかり
聖ペテロさんよ もうちょい待ってくれ
おいらまだ天国には行けないんだ
魂を会社に取られているんだ
そんな「16トン」からインスパイアされたと思しき「ダイナマイトが百五十屯」は、小林旭が頭のてっぺんから飛び出すような高い声で歌ったことによって、最初にヒットした日本産のロックンロール・ナンバーとなった。
なお、ダイナマイトが150屯といえば、1トントラックなら150台分になる。しかし、爆弾搭載量が1機あたり4500kg-9100kgのB-29が、日本への空襲で落としたのはそれとはケタ違いの量だった。
たとえば1945年3月10日に行われた東京大空襲では、3個航空団からB-29が334機も参加した。そして目標を爆撃したのは279機、投下された爆弾の種類は油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾など合わせると約38万発、1,700屯もの量だった。
これによって東京の3分の1以上の面積が焼け野原になり、10万人ともいわれる市民が殺されたのである。犠牲になったのは女性や子どたちで、疎開も出来ずに生活していたお年寄りも多く含まれていた。
(注)本コラムは2015年8月21日に初公開されました。
<参照コラム 小林旭の「ダイナマイトが百五十屯」~詞・曲・歌唱が奇跡的に融合され爆発している”土着ロック”の最高傑作>
大瀧詠一による監修・選曲『アキラ 3』
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