覚えやすいことが必要な歌謡曲では、まず印象的なイントロのアタックが重要だ。
そして歌詞においては歌い出しの一行が勝負である。
「津軽海峡・冬景色」はわずか一行で、主人公を上野駅から青森駅まで連れて行ってしまう。
阿久悠の物語性が強い歌詞は映像的で、三木たかしの三連のビートに言葉を乗せて北の風景を鮮やかに描いていく。
そして石川さゆりの切ない歌声は、うめき声のような海鳴りと重なって聴き手に迫ってくる。
「北」というと今は誰もが方角のことを思い浮かべるが、実は「北」には【逃げる】という意味があるという。
「北」という漢字 は、左と右の人間が背を向けて立っている様子を表している。
そこには【背を向ける・そむく】という意があり、【背を向けて逃げる】という意味にもつながる。
例えば『敗北』は【負けて逃げる】という意味だ。
そう考えると、歌の中の孤独な主人公がなぜ北を目指すのか、かなり理解できるのではないだろうか。
日本の歌の主人公は、北へ北へと目指す。
北へいくほど風景は寂しくなり、行きあう人は少なくなる。
だから、北へ行こうとするのかもしれない。
肩をすくめ、心を凍らせて、歌の中の男や女は、独りうずくまる。
それが、わが国のロマンティシズムである。
(久世光彦)
当時の石川さゆりファンには、ふだんはロックを聞いている若者が多かったという。
日本語ロック論争の舞台となった『ニュー・ミュージックマガジン(現ミュージック・マガジン)』を1969年に創刊した中村とうようは、そのことにについてこう述べていた。
演歌にロック・ビートがついている、ということだけなら、別に新しくも、物珍しくもない。
〈略〉
早い話が、八代亜紀にしたところで、伴奏には、控え目ではあるがロック・ビートがついている。だけど、石川さゆりの三部作は、ただ演歌にロック・ビートがくっついてるだけではない。最初からロックの形で作られた演歌なのである。(注)
1973(昭和48)年に「かくれんぼ」でデビューした石川さゆりはなかなかヒット曲にはめぐまれず、13枚目のシングルからは阿久悠と三木たかしのソングライター・コンビに楽曲を提供してもらうようになった。
しかし透明な声を持った18歳の少女、石川さゆりに似合う歌は何かと探りながら阿久・三木コンビが書いたシングルの「十九の純情」と「あいあい傘」は、2曲続けて空振りに終わった。
3曲目の「花供養」でもヒットが出なかったので、次の1曲を選び出すために『365日恋もよう』というアルバムが作られる。
それは1月から12月まで12曲、日本中を舞台に季節を組み合わせて女の恋を歌にする試みだった。
アルバムが発売されたのは1976(昭和51)年11月25日、「津軽海峡・冬景色」は最後の12曲目に収まった。
1月:伊那谷を舞台にした「伊那の白梅」
2月:札幌を舞台にした「雪まつり」
3月:鳥取を舞台にした「流しびな」
4月:(既発のシングル曲)「花供養」
5月:九州の日豊本線を舞台にした「日豊本線」
6月:長崎を舞台にした「雨降り坂」
7月:琵琶湖を舞台にした「螢の宿」
8月:高松を舞台にした「瀬戸の花火」
9月:淡路島を舞台にした「私の心の赤とんぼ」
10月:静岡を舞台にした「千本松原富士を見て」
11月:横浜を舞台にした「横浜暮色」
12月:青森を舞台にした「津軽海峡・冬景色」
1977(昭和52)年1月1日にシングルが発売されると、「津軽海峡・冬景色」は大ヒットして第19回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。
石川さゆりはNHK紅白歌合戦へ初出場も果たした。
アルバムからシングル・カットされた曲でヒットを放つのは、歌謡曲には珍しいというか、ほぼことでロックの分野でよく起こる展開だった。
しっかりしたコンセプトがあったからこそ、必然的に生まれた名曲が「津軽海峡・冬景色」だった。
石川さゆりはここで、傷ついた女心だけではなく、昭和という時代の空気、年の瀬といった季節感までを歌で表現できる歌手だと証明した。
そして敗北から立ち直る意志を「私は帰ります」と歌った。
そこもまた新しい女の生き方を提示してきた作家、時代を先取りする阿久悠らしいところだった。
自立した女性の強さとしなやかさは、石川さゆりというシンガーの方向を決定づけるものとなった。
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(注)石川さゆりの三部作とは「津軽海峡・冬景色」と、それに続いてヒットした「能登半島」「暖流」を指している。
TAP the POPメンバーも協力する最強の昭和歌謡コラム『オトナの歌謡曲』はこちらから。