兄妹デュオのリチャードとカレンが「カーペンターズ」名義で、ロサンゼルスのA&Mレコードと契約を結んだのは、1969年のことだった。
だが、その年にリリースされた彼らのファースト・アルバム『オファリング』は、当時はほとんど注目されなかった。
ただ、ビートルズのヒット曲をカヴァーした「涙の乗車券」(Ticket to Ride)がビルボードのHOT100で、最高54位にランクインしたことによって、一部の音楽ファンには好印象を残した。
そして1970年にリリースされたシングルの「遙かなる影」<(They Long to Be) Close to You>が大ヒットし、7月25日から4週にわたってHOT100で全米1位の座をキープしたのだ。そうした勢いもあって、セカンド・アルバム『遙かなる影』はベストセラーになっていく。
さらに収録曲からシングル・カットされた「愛のプレリュード」(We’ve Only Just Begun)が、HOT100で2位まで上昇したことによって、カーペンターズはその年のグラミー賞で最優秀新人賞に輝いた。
1971年には「ふたりの誓い」(For All We Know)がHOT100で3位、「雨の日と月曜日は」(Rainy Days and Mondays)と「スーパースター」(Superstar)はともに2位で、シングル・ヒットが続いたカーペンターズは、トップ・アーティストの地位につくことになったのである。
日本における発売元のキングレコードで、カーペンターズを担当していた寒梅賢氏は、どうすればアメリカのように日本でもヒットさせることができるかと考えた。
そして一生懸命に歌詞の意味を考えて、日本人にぴったりあう曲名を付けようとしていたが、簡単には売れなかったという。
「Rainy Days and Mondays」は「雨の日と月曜日は」。この「は」がいいんだ、とか言って(笑)。「For All We Know」は「ふたりの誓い」。当時はラジオ時代だったから、ラジオで聴いて買いに行くことを考えると、原題より邦題のほうが覚えやすくていいかなと。
しかし、日本ではなかなか火がつかなくて、「愛のプレリュード」「ふたりの誓い」「雨の日と月曜日は」は、ほとんど売れなかった。
それでも寒梅氏はヤマハが主催した「世界歌謡祭」のために初来日したカーペンターズが、1970年に与えられた屈辱を目の当たりにしていたことから、「日本でナンバー1にして見せる。一人も帰らない武道館コンサートをやって見せる」と、いつも強く思っていたという。
〈参照コラム〉初来日したカーペンターズが屈辱を味わった日本武道館における第1回世界歌謡祭
だから手をこまねいていないで、何とかして日本でもシングル・ヒットを出そうと努力してきた。とはいえ、プロモーションは最初から苦戦の連続だった。
ライヴァルのエルトン・ジョン、ミッシェル・ポルナレフ、レオ・セイヤーなんかは話題がたくさんある。でもこっちは「心地よくてきれいで爽やかで」で終わっちゃうじゃないですか。記事にしようがない。
カーペンターズが日本の音楽ファンに認められたのは、1971年から72年にかけてのことだった。レオン・ラッセルの曲をカヴァーした「スーパースター」が、日本のヒットチャートで最高7位まで上昇したのである。
やっと日本でも多くの人に認知されてきた頃、アメリカでは1972年6月に発表された4枚目のアルバム『ア・ソング・フォー・ユー』がブレイクしていた。
そのなかから最初に「ハーティング・イーチ・アザー」(Hurting Each Other)がシングルカットされて、順調に全米2位のヒットになった。
カーペンターズにとって、それは6枚目のゴールドディスク獲得だった。
その後もキャロル・キングのカヴァー曲「小さな愛の願い」(It’s Going to Take Some Time)がシングル・カットされて12位になり、さらに「愛にさよならを」(Goodbye to Love)も7位に入った。
このとき、「日本独自のシングル盤を売りたい」と、リチャードにアピールしていたのが寒梅氏だ。
日本の音楽ファンには「トップ・オブ・ザ・ワールド」(Top of the World)のほうが受けると信じて、何度もかけあって了承を得たうえで11月にシングル盤を発売したのだ。そして日本のチャートでは最高21位だったが、約5ヶ月もチャートインするロングセラーを記録し、見事に結果を出したのである。
それに鋭く反応したのが、アメリカの発売元だったA&Mレコードの音楽出版部門である。
日本での成功によって、あらためていい曲だということに気づいて、1970年に「ローズ・ガーデン」の大ヒットを放ったカントリー出身の人気歌手、リン・アンダーソンのシングルとしてカヴァーが発売になった。そして「トップ・オブ・ザ・ワールド」はカントリー・チャートで、2位になったのである。
カーペンターズはそこで、アレンジに手を加えた新しいヴァージョンをつくって、1973年9月にあらためてシングルをアメリカでもリリースした。
アルバム発売から1年以上が経過していたにもかかわらず、そのシングルはビルボードのHot100で1位の座についたのだ。兄妹デュオにとっては「遙かなる影」に続いて、2曲目のナンバーワン・シングルになった。
歴史的なヒット曲が誕生してくる裏には、歌や作品に対するこだわりを持った人たちの、実にさまざまな思いと物語が存在している。
<参考図書>
寒梅賢氏の発言は、篠崎 弘(著、監修)「洋楽マン列伝 1 」(ミュージック・マガジン) からの引用です。
カーペンターズ「Singles:1969-1973」
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