椎名林檎の担当ディレクターだった東芝EMIの篠木雅博は、彼女のデビューに向けて楽曲制作の準備に入っていた頃、現場での仕事を減らしてプロデューサー的な立場に移行しつつあった。
そのために外部のディレクターにスタジオワークを任せようと思い、実績のある人物に仕事を依頼したという。
ところが楽曲にかなりの手直しが必要だと主張するディレクターに対して、本人が「どうしても納得できない」と強く拒否したために依頼を断念せざるを得なかった。
篠木は自分が学生だった頃に吉田拓郎の曲を聞いていた時、父親から「こんなもの歌じゃない」と言われたことを憶えていた。
当時の大人たちには早口ソングのような吉田拓郎の歌い方と、七五調の定型に収まらない歌詞に対しては強い違和感があったのだ。
僕もディレクターと同意見だったが、これほどの違和感を抱かせる作品に出会った経験がなかったので、ひょっとしたら、この違和感は大化けの予兆かもしれないとも思った。
若い人の音楽は、年配者には違和感として聞こえる。過去の音楽が脳に染みついて、受け入れなくなっている。
僕もそれだけ年を取り、感覚がずれてきたのかもしれないと素直に思ったのだ。
椎名林檎の個性を生かすには、自由にやってもらうしかない。僕は、アレンジャーとしてベーシストの亀田誠治を紹介して2人の作業に委ねた。
1998年に「幸福論」でデビューした椎名林檎は、セカンド・シングル「歌舞伎町の女王」で注目される。
そして翌年1月に出したサード・シングル「ここでキスして。」がヒットし、ファースト・アルバム『無罪モラトリアム』で大きくブレイクしていく。
自らを”新宿系自作自演屋”と称していたこともあって、アルバム2曲目の「歌舞伎町の女王」があらためて話題になり、それに続く3曲目の「丸の内サディスティック」も評判になった。
それは普通の人には意味不明の言葉ばかりが出てくるにもかかわらず、どこか挑発的で扇情的な内容だった。
歌詞に出てくる「東京」「御茶ノ水」「銀座」「後楽園」「池袋」という地名は、いずれも営団地下鉄の丸ノ内線にある駅名からきている。
その前の曲で「新宿」の歌舞伎町を歌っていることもあって、どことなく東京を舞台にした流れのなかでの物語性が感じられる。
さらに歌詞を読めば楽器メーカーのブランド名「リッケン」「マーシャル」「グレッチ」が並んで、楽器の街だった「御茶ノ水」などの風景も立ち昇ってくる仕掛けだ。
「丸の内サディスティック」が世に出た1999年から遡ること70年、昭和4(1929)年に「東京行進曲」は日活映画『東京行進曲』の主題歌として誕生している。
金融恐慌による不況などから不安がつのるなかで、享楽主義や刹那主義がはばをきかせて、巷ではエロ・グロ・ナンセンスが流行していた時代のことだ。
モダンボーイとモダンガール、略してモボ・モガが行き交う昭和初期の東京は、まだ戦争の影は薄く街には妙な賑わいがあった。
そうした風潮のなかで西條八十は最先端の風俗を織り込んで、大衆にアピールすることを強く意識して「東京行進曲」を作詞した。
丸の内ビルディングを丸ビルに略し、思い切つて調子を下した言葉でカタカナ横文字を散りばめた歌詞はモダーンで、中山晋平が作曲して佐藤千夜子が歌うと爆発的なヒットになった。
とくに1番の「ジャズで踊って リキュルで更けて 明けりゃダンサーの 涙雨」というデカダン調の歌詞は、扇情的だったという点でも「丸の内サディスティック」に通じている。
新宿に駅を開業したばかりだった小田急線が登場してくるのは、最後となる4番の歌詞だ。
西條八十が書いた歌詞は「長い髪してマルクスボーイ 今日も抱える『赤い恋』」というものだったが、当局の検閲に引っかかるかもしれないとの理由で、ヒット曲を狙っていた日活からの要請でこのように書き直した。
その結果、軽いタッチではあるが「いいそ小田急で逃げましょか」という大胆な歌詞となり、そこが若者たちに大いに受けることになったのだ。
戦後の復興期に営団地下鉄丸の内線の新宿駅が開業したのは1959年、「東京行進曲」のヒットから30年後のことになる。
昭和の流行歌「東京行進曲」と、平成のJ-POP「丸の内サディスティック」は、東京のご当地ソングとして新宿駅でつながっていた。
椎名林檎がデビューしてから20年、トリビュート・アルバム『アダムとイヴの林檎』には、宇多田ヒカル&小袋成彬の「丸ノ内サディスティック」が収められている。
イギリスのミュージシャンたちとともに、ロンドンでレコーディングされた東京ソングは都会的でクールな仕上がりになった。
ちなみに「丸ノ内サディスティック」の原曲は、椎名林檎がデビュー前にイギリスで英語で書いたものだという。
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