ブルース・スプリングスティーンは、2016年にBBCラジオ4に出演した時、無人島に持っていくレコードについて「これは俺を感電させた音楽なんだ。ある種、俺の人生を変えるように駆り立ててくれたものなんだよね」と語っている。
彼が選んだのは以下の8曲、筆頭がエルヴィス・プレスリーだった。
エルヴィス・プレスリー「ハウンド・ドッグ」(1956)
ザ・ビートルズ「抱きしめたい」(1963)
ザ・ローリング・ストーンズ「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」(1964)
ジェームス・ブラウン「アウト・オブ・サイト」(1964)
ザ・フォー・トップス「ベイビー・アイ・ニード・ユア・ラヴィング」(1964)
ボブ・ディラン「ライク・ア・ローリング・ストーン」(1965)
ヴァン・モリソン「マダム・ジョージ」(1968)
マーヴィン・ゲイ「ワッツ・ゴーイング・オン」(1971)
ブルース・スプリングスティーン自伝
当時7歳だったブルースにとって、1956年にテレビ「エド・サリヴァン・ショー」で見たエルヴィスは、とてつもないほどの衝撃でビッグバンだったという。
それから60年後になって出版された自叙伝のなかでも、「自由の歌が歌われた」「自由の鐘が鳴らされた」「ヒーローが現れた」とまで記している。
その晩、その数分が終わって、ギターを持った男が金切り声に包まれて消えたとき、おれは心が火事になったまま、テレビの前で呆然としていた。おれにだって二本の腕と、二本の脚と、二つの目がある。見てくれは最悪だが、それはどうにかなるだろう……だとすると足りないものは何だ? ギターだ!!
ブルースは翌日、母親を説得して楽器店に行くと、購入するお金がなかったのでギターを貸してもらった。そしてギターを習ってみることにしたのだが、このときはまだ幼すぎてきちんと習得できずに終わっている。
だがエルヴィスによって灯された心の中の火(ファイア)は、消えることなくずっと燃え続けていった。
それから20年の歳月が過ぎて、エルヴィスのために「ファイア」という曲を書いたのは、1977年5月28日にフィラデルフィアで行われたコンサートを観て刺激されてのことだ。
その時期のブルースは出世作となった1975年のアルバム『明日なき暴走』の成功から一転して、マネージャーとの訴訟問題で2年間もレコーディングができないという状態を経て、ようやく自由を勝ち取って音楽活動に復帰したところだった。
ブルースは「ファイア」を書き上げると、デモテープをエルヴィスに送ったが、それを聴いてもらうことは叶わなかった。エルヴィスが8月16日に突然、亡くなってしまったのである。
エルヴィスが歌ってくれないのなら、自分が歌うしかない。ブルースはそのレコーディングについて、「彼の霊がおれたちのセッションの現場に漂っていた」と、自叙伝で述べている。
しかし、50曲をゆうに超える楽曲をレコーディングしたものの、最終的にアルバム『闇に吠える街』に選ばれたのは10曲だけだった、そのなかに「ファイア」がなかったのは作品の良し悪しではなく、アルバムに必要な統一感のためであった。
『闇に吠える街』は言わばサムライ・アルバムで、闘うためにいっさいを削ぎ落としている。収録曲の主人公たちは、生き延びるのに不要なものはすべて捨てなければなかった。『闇に吠える街』では、おれの書くような人々の人生の政治的な意味合いが全面に出はじめ、おれはそれを収める曲を探した。
「ファイア」はその後、ロバート・ゴードンにカヴァーされて、さらに黒人コーラス・グループのポインター・シスターズによって大ヒットする。
このポインター・シスターズのヴァージョンは、1979年の2月に全米チャート2位にまで上昇したのである。ちなみに『闇に吠える街』からのシングルは、「暗闇へ突走れ」が最高33位、続く「バッドランド」も42位止まりだった。
なお、本人によるヴァージョンはライヴにおいて重要なレパートリーになり、ライヴ・アルバム『The “Live” 1975-1985』にも収録されている。
また、スタジオ録音のオリジナル音源も、2010年に発表されたコンピレーション・アルバム『ザ・プロミス〜ザ・ロスト・セッションズ』で、ようやく日の目を見ることになった。
<参考文献>ブルース スプリングスティーン 著、鈴木 恵、加賀山 卓朗、他訳「ボーン・トゥ・ラン ブルース・スプリングスティーン自伝 上」 (早川書房)
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