「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

Extra便

大瀧詠一が初めて細野晴臣の部屋に入った瞬間、思わず発した言葉とは?

細野晴臣と大瀧詠一がはじめて出会うのは1967年の春先のことだが、きっかけはもう一人の友人との出会いだった。 その前年の秋、立教大学のキャンパスにある待ち合わせ…

TAP the SONG

「過去、一度たりとて音楽を制作する側がヒットを作ったことなんてないんだ」~大瀧詠一

”歌謡曲の生みの親”と目されている作曲家の中山晋平と、”最高のポップス職人”を目指して生涯を全うした大瀧詠一が、実は同じ命日だったということに最近気がついた。 …

TAP the DAY

大瀧詠一は設計士で僕は左官屋、細野晴臣が『ナイアガラ・ムーン』を聞きながら自作を語った日

大瀧詠一がエレックレコードとの契約で、プライベートレーベル「ナイアガラ」を設立したのは1974年9月だ。 自分のレーベルを持って作詞・作曲・編曲・プロデュース・…

夢で逢えたら

TAP the SONG

大瀧詠一の「夢で逢えたら」が日本有数のスタンダード・ナンバーに至るまでの道のり

数多くのヒット曲を残した大瀧詠一の作品の中でも、広くカバーされてスタンダードになったという意味では、「夢で逢えたら」が代表曲に挙げられる。 この歌が誕生したのは…

季節(いま)の歌

冬のリヴィエラ〜大滝詠一&松本隆という名コンビが生み出した“異色のヒットソング”の誕生秘話

イタリア語で海岸を意味する“リヴィエラ”を舞台に、何とも切ない大人の歌物語が描かれた名曲である。 一般的にリヴィエラというとイタリア北西の海岸沿いを指すという。…

TAP the DAY

追悼・遠藤賢司~確固たる意志を持って”純音楽”をめざした孤高の一匹オオカミ

1969年10月28日、お茶の水にあった全電通会館ホールで日大闘争救援会が主催するコンサート『ロックはバリケードをめざす』が開催された。 出演したのは遠藤賢司、…

TAP the SONG


「ガラスのジェネレーション さよならレボリューション」〜新しい時代の新しい音楽が聴こえてきた瞬間

レコードを聴くときの喜びは、まずジャケットのビジュアルから始まる。 そっとレコード盤を取り出して、歌詞カードを目にしながらターンテーブルに載せる。 最初の1行の…

TAP the NEWS

風立ちぬ〜大瀧詠一と松本隆による“はっぴいえんどタッグ”が紡いだヒット曲の誕生秘話

「とてもいい曲だと思いますが…私には向いていないと思います。」 それは1981年8月の出来事だった。 東京の信濃町にあったレコーディングスタジオで、デビュー2年…

Extra便

追悼・相倉久人 大瀧詠一とのナイアガラ対談で発表された「分母分子論」

1983年の11月から12月にかけて雑誌『FMファン』での対談で、大瀧詠一の「分母分子論」は発表された。 それはジャズ評論家の相倉久人を先生として、生徒の大瀧が…

TAP the DAY

大瀧詠一が後進のために残した貴重な財産~ラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』

はっぴいえんどのメンバーとしてプロデビューする大瀧詠一は、バッファロー・スプリングフィールドの音楽がきっかけで、細野晴臣と松本隆との出会いがあって1969年の秋…

TAP the DAY

DJイーチ・オータキこと大瀧詠一の番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』が始まった!

1975年6月9日、関東のローカル・ラジオ局、「ラジオ関東」で新しい番組が始まった。 『ゴー・ゴー・ナイアガラ』は普通の人が眠っている時間帯、真夜中の3時から4…

TAP the SONG

追悼・大森昭男~大瀧詠一が自分のポップスで最初の完成品と言った「サイダー’74」が陽の目をみるまでの1年間

大瀧詠一が自ら「大瀧ポップスの最初の完成品です」と自信を持って宣言する作品が誕生したのは、オン・アソシエイツのプロデューサー、大森昭男と知り合ってからちょうど1…

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