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追悼・黒沢健一~純度の高いポップスを生みだして希有なメロディメーカーとの評価を得た音楽家

2023.12.04

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1968年に茨城県日立市に生まれた黒沢健一が、生涯を捧げるポップスに目覚めたのは幼稚園の頃だった。

彼には近くに住んでいる二人の従兄弟がいて、いつも家によく遊びに来てくれていたという。
ひとりはレッド・ツェッペリンやプログレッシブ・ロックが大好なブリティッシュ・ロック通で、もうひとりはビーチボーイズやイーグルスなどのアメリカンポップス好きだった。

その二人が1970年代に入ってからビートルズにはまり、アナログの2枚組ベストアルバムだった赤盤と青盤、すなわち『ザ・ビートルズ1962年〜1966年』 と『ザ・ビートルズ1967年〜1970年』が発売になったことから、一緒に聴くようになったのである。

そんな二人は映画を観に行く時にも、幼い黒沢健一を連れて行ってくれた。
それはロック映画の3本立てで、『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』と『レット・イット・ビー』、そしてローリング・ストーンズ『ギミー・シェルター』だった。

初めて連れて行かれた映画がビートルズの『A Hard Day’s Night』だったり(笑)、意識して聴いていたというより、その二人といると自然と聴ける環境にいた訳です。
それでどちらかは忘れたんですが、ビーチ・ボーイズの『Spirit of the America』(75年)を持っていまして、「イギリスではビートルズが人気なんだけど、アメリカではこういうグループが人気あるんだぞ」って言われて、そのアルバムをもらったんです。


そうした時代と環境、そして人と人とのつながりが、稀代のポップス少年を誕生させたのである。

黒沢健一はビーチ・ボーイズからオールディーズやシックスティーズにも触れて、ルーツをたどってそれらを積極的に吸収していった。

1930年代のアメリカの音楽とか、ロックンロール以前の音楽に興味がいく訳ですよ。
それでもう一遍『SMILE』に立ち帰るっていくとか。
そういうアメリカ音楽全般の勉強になったというか、元々「Surfin’U.S.A.」がきっかけだったのに、何でこんなに人脈が広くて、カリフォルニア一帯でこんな事が起こっていたんだろうって。


そこからもっとルーツをさかのぼってブルースやブルースロックなど、アメリカン・ミュージック全体をかなりマニアックに聴いて勉強していった。
高校生の頃に組んでいたアマチュアバンドではギターを担当し、オリジナル曲を作ってコンテストに参加している。

プロの目にとまったのは必然だった。

しかし表に立つよりも裏方への関心が高かったことで、黒沢健一はシンガーにならないかという誘いを辞退したという。
そして高校卒業後は作曲家として事務所と契約し、音楽活動に入っていっていく道を選んだのである。

お手本にもなったフィル・スペクターなみに早熟なソングライターとして、南野陽子や島田奈美といったアイドル歌手への楽曲提供を行った。

小学生の頃、『ザ・ベストテン』などの歌番組を見ていても、歌手よりもバックバンドの人たちの使っている楽器やアンプに興味が行くようなタイプでしたし、誰が歌っているかというより、この曲を誰が作ったのかという部分に目が行く変な子供だったので、人に曲を書く事はある意味とても自分で向いていると思いました。


それでもボーカリストとしての才能をあきらめきれない事務所の要望により、やはりポップス少年だった弟の黒沢秀樹と木下裕晴の3人でL⇔Rを結成したのは1990年のことだ。

翌年にミニアルバム『L』でデビューすると、音楽性の幅を広げるために女性コーラスに嶺川貴子を迎えて、1992年4月1stアルバム『LEFTY IN THE RIGHT〜左利きの真実』を発表。

1993年には嶺川貴子が脱退したものの、シングル「HELLO, IT’S ME」がグリコ「ポッキー」のCMに起用されて1994年にヒット、バンドの人気が高まった1995年にはシングル「KNOCKIN’ ON YOUR DOOR」がドラマの主題歌となってオリコン1位を記録した。


純度の高いポップスを生みだした黒沢健一は希有なメロディメーカーとの評価を得たが、1997年に自らL⇔Rの活動休止を宣言する。
それ以降はソロ活動がメインとなったが、ソングライターとして楽曲提供を行なうほか、バンドのプロデュースなども手がけていった。

21世紀に入ってからは多くのバンドやユニットにも参加し、自らが表に出て活動する機会も増えてきた。

ところが2016年10月11日、ブログで「実は現在病気療養中で入退院を繰り返しています」と発表。
そして回復が待たれているなかで、12月5日に脳腫瘍のために永眠したという訃報がもたらされたのだった。

最後に弟の黒沢秀樹が公表した言葉を紹介したい。  

病気療養を続けていたL⇔Rのリードヴォーカル、僕の実兄である黒沢健一は12月5日の深夜、夜明けを待たずに旅立ちました。
家族の見守る中、安らかに眠るような最期を迎えることが出来ました。
デビューから25年という節目の年にこのような報告をしなくてはならないことはとても悲しく残念なことですが、黒沢健一の音楽はこれからもずっと、聴く人の心に響き続けてくれると信じています。
兄の遺してくれた作品が、一人でも多くの人の悲しみや絶望を癒し、希望の糧となってくれることを心から願っています。

享年48。合掌。

黒沢健一オフィシャルサイト
黒沢秀樹オフィシャルサイト

(注1)「黒沢健一 インタビュー」MUSICSHELFトップ > 特集・連載 >   http://musicshelf.jp/?mode=static&html=special11/page4

(注2)「KNOCKIN’ ON YOUR DOOR/L⇔R」http://hfmweb.jp/blog/shokutaku/2009/01/post_55.html

(注)本コラムは2016年12月10日に公開されました。


TAP the POPメンバーも協力する昭和歌謡コラム『オトナの歌謡曲』はこちらから。

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