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イギリスでも無名だったクイーンを日本で売り出すことを決めて意欲を燃やしたプロデューサー・渡邊晋の慧眼

2019.04.17

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クイーンが本国のイギリスでデビューしたのは1973年7月だったが、シングル「炎のロックンロール」もアルバム『戦慄の王女』も、マーケットではほとんど反応がないままメディアからは酷評されてしまった。

しかしまだアルバムが発売になる直前の5月の段階で、その後の彼らの運命にも影響を与えたふたりの日本人が、本人たちの預かり知らないところで、日本における売り出し方に思いをめぐらせ始めていた。

ことの発端となったのは拡大する日本の音楽マーケットに関して、渡辺プロダクションの創業者で社長だった渡邊晋と、副社長で夫人の美佐のもとへ、欧米のレコード会社や音楽出版社、アーティストのエージェントなどから様々な共同事業の提案が持ち込まれていたことだった。

渡辺プロを設立した時からの夢だった「日本の音楽を世界に」という気持ちと意志を、渡邊晋夫妻は片時も忘れることはなかったという。
だから日本国内でのビジネスの進展させていく足場が固まってくると、当然のように海外への進出を企ててチャレンジしていった。
最初が1960年代のザ・ピーナッツ、その次がタイガースを解散してソロになった沢田研二である。



世界中でネットワークを広げていたワーナーグループのWEAとの間で、渡辺プロは1970年に合弁会社のワーナー・ブラザーズ・パイオニア(W・P)株式会社の設立に合意した。
これは渡邊晋夫妻を信頼する欧米のミュージックマンたちから度重なる要請を受けたので、それに応えて引き受けたものであった。
1971年から外資系レコード会社としてスタートさせると、邦楽部門から新人の小柳ルミ子やアグネス・チャンがブレイクしたことで、経営は早くも軌道に乗った。

1973年3月には渡辺プロの支社がロンドンに開設されている。
沢田研二のレコーディングが行われたのは5月のことだが、このときはオリンピック・スタジオだったという。
ちなみにトライデント・スタジオではその年のはじめにブレッド&バター、8月の終わりから9月に井上陽水の『氷の世界』がレコーディングされていた。

渡辺プロダクションの創立40周年を記念して刊行された社史「抱えきれない夢~渡辺プログループ40年史~」のなかに、そのことについてかなりの分量を使って経緯が記してある。

トライデントという会社はスタジオを持ちながらタレントのマネージメントもやり、いっさいを社長夫妻で切り回していた。その点、渡邊夫妻と似たところがあって、渡辺プロではロンドンでのレコーディングなどに同社を利用していた。
五月の会見でトライデント社長は、「うちのタレントを日本で売り出してみる気はないか」と言って、数組の写真をみせた。その中から、「よし、これをやろう」と普が引き抜いたのを美佐がみると、クイーンというグループ名が刷り込まれていた。普はレコードを聴いて、「クラシック・ベースがきちんとしているし歌唱もいい」と意欲を燃やし、美佐は、この直後にエリザベス女王が初訪日する予定を思い出し、ある種の期待を抱いた。




もともとはシックスジョーズを率いるジャズマンだった渡邊晋はプロデューサーとして、ハナ肇とクレイジーキャッツ、ザ・ピーナッツを売り出したことで最初の成功を収めた。
それにともなって夫人の美佐との二人三脚で芸能プロダクションの近代化を推し進めながら、テレビという新しいメディアの可能性にも着目した。
そこで『ザ・ヒットパレード』や『シャボン玉ホリデー』という人気音楽番組をプロデュースしたことによって、ヒット曲とテレビとの蜜月時代を作り上げていった。

二人はそうした成功に留まることなく音楽出版とレコードの原盤制作部門を強化し、作詞家の安井かずみや作曲家の平尾昌晃など、優秀なソングライターのマネージメントも引き受けている。
ヒットに値するいい音楽を作り出すためには、クリエイティブな才能が不可欠だということを理解していたからだ。

そして次々に優れた作品を世に出してヒットさせたことで、それらに関する著作権ビジネスを収益の柱として確立させていった。
また華やかな歌手やタレントばかりではなく、映画制作、コマーシャル制作、スタジオ経営、タレント養成学校などの関連分野にも積極的に乗り出した。




イギリスでも無名だったクイーンのアルバムを出すに当たり、渡邊晋はまず日本で火を付けておいてから、逆輸出の形で世界に売り出すことを考えた。
というのもアメリカの発売元であるWEAが当初、まったくといっていいほど興味を示さなかったからである。

クイーンは1974年の5月に行われたモット・ザ・フープルのアメリカ・ツアーで、セカンド・アルバム『クイーンⅡ』のプロモーションのために、前座として同行する予定になっていた。
その時に渡邊晋が社長を務めていたワーナー・パイオニアは、日本から5人ものマスコミ関係者を取材としてアメリカまで連れていった。
社史「抱えきれない夢~渡辺プログループ40年史~」には、WEA側とW・Pのスタッフとの間の会話で行われたやり取りが会話形式で記してあった。

日本のW・Pは、このアメリカ公演の取材に五人を送り込んだ。
WEAは驚いた。
「なんで五人もはるばるきたのだ?」
「クイーンのアルバムを日本で発売するので、その取材と調査を兼ねている」
「それにしても五人は多いだろう」
「これは美佐の意向である」。
相手は不服そうに黙った。
じつは、W・P側も充分な自信を持っていなかった。


このエピソードはいかに渡辺晋と美佐がクイーンの売出しに力を入れていたのか、その具体的な例のひとつといえるだろう。
クイーンは雑誌「ミュージックライフ」との連携がうまくいったこともあり、ルックスがいいし音楽もカッコいいと、若い女性ファンの間でアイドル的な注目を集めていった。

そうした用意周到なプロモーションの成果もあって、日本でのスタートは1974年3月の『戦慄の王女』から好調だったが、イギリスでも3月に出した『クイーンⅡ』によって人気が出始めていく。
さらに1974年11月にリリースする3枚目のアルバム『シアー・ハート・アタック』から、先行シングルに選ばれた「キラー・クイーン」がイギリスだけでなく、アメリカでもヒットして人気に火がついたのである。

これによって風向きが大きく変わってきて、1975年4月17日に初来日してツアーが行われたときには、クイーンの知名度と人気はかなり上がってきた。


そんな上昇ムードの中で、羽田空港に1000人を超すファンが待ち構えるところに、クイーンのメンバーがやってきたのだから、熱狂的に迎えられたのは当然だった。

さっそく空港からファンの追っかけが展開され、イギリスのテレビ局がこれを取材し本国に流した。
東京・武道館、横浜文化体育館、名古屋体育館など全八公演をこなし、ファンが大熱狂する中でクイーンは最もホットなロック・スターになっていった。WEAもW・Pも普と美佐の先見の明に脱帽した


ただし、大手メディアを使った芸能界的なプロモーションの反動が出たのだろうか、1975年に発表したアルバム『オペラ座の夜』が音楽面で高く評価されて世界的なヒットになるまで、日本では男子の音楽ファンはどことなくではあるが、いささか抵抗感を持っているようであった。





(注)本コラムは2018年11月24日に公開されました。

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