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音故知新⑥〜そしてパンクロックが生まれた

2023.10.16

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「PUNK IS ATTITUDE!NOT STYLE!」

これはイギリスを代表するパンクバンド、ザ・クラッシュのジョー・ストラマーが常々口にしていた言葉だ。
パンク(Punk)とは一体何なのだろうか?
一般的には“音楽ジャンルの一つ”または“反体制的・左翼的なサブカルチャー”として認識されているこのパンクという言葉。
本来は“青二才”“チンピラ”“不健康”などを意味する俗語だという。
その表現形態は、音楽、ファッション、アート、ダンス、文学、映画、イデオロギーにまで及ぶ。

──それは1970年代の中頃に誕生した。
当時、音楽産業は巨大化の一途を辿っており、コンサートの規模、演奏技術、ステージ演出など、もはや常人には“手の届かない存在”となっていた。
その頃のシーンを席巻していたハードロック、プログレッシブロック、グラムロック…これらのどのジャンルにも馴染めなかった若者達が“等身大の音楽”としてシンプルに楽器を搔き鳴らしたのがパンクロックだった。
そのノイジーでテンポの速い荒削りな演奏と攻撃的な歌詞はロックンロールが本来持っていた野蛮性と未熟性を一気に甦らせた。
そんな衝動的に誕生したと思われるパンクロックにもルーツがあるという。
それは1960年代中頃からニューヨークで活動していたヴェルヴェット・アンダーグラウンドの存在だった。





「あまりの下手さに”俺にも出来る”と勇気が出たよ」とは、後に“パンク界のゴッド・ファーザー”と呼ばれるようになるイギー・ポップの言葉だ。
イギー自身も1967年にザ・ストゥージズを結成し新しい音楽スタイルを模索しようとするが…商業的に成功することなく(イギーを含む)メンバーの薬物依存問題も重なり活動休止状態となる。


そこへ救いの手をさしのべたのが、早くからヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードやイギーの才能に気づいていたデヴィッド・ボウイだった。
ドラッグに溺れ引退状態となっていたイギーは(何度か同じつまずきを重ねながらも)ボウイの手によって再起し、時代も彼に追いつき成功を収めてゆくこととなる。
こういったグラムからパンクへと移行する過渡期に現れたバンドが、1973年に奇才トッド・ラングレンのプロデュースでデビューしたニューヨーク・ドールズだった。
娼婦のようなメイクでド派手な衣装を身にまといながら、シンプルでストレートなロックンロールを演奏した彼らのスタイルこそが、ある一説では“パンクの元祖”とも言われている。


また、この頃ニューヨークで起きていた“変化”をすべて間近で体験していたパティ・スミスの存在がパンクの誕生に大きく関わっていたという説もある。
幼い頃から虚弱体質だったパティは、毎日本を読んで暮らす生活を送っていたが、その後ニューヨークの書店で働くうちに写真家ロバート・メイプルソープと出会い同棲生活を始める。
メイプルソープは多くの芸術家との交流があり、彼女はこの時期にヴェルヴェット・アンダーグラウンドのプロデューサーであった芸術家のアンディ・ウォーホル、ビートニク詩人のアレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズ、脚本家のサム・シェパードやトッド・ラングレンなど、さまざまなアーティスト達と親しくなる。
そして自らも自作の詩にバックミュージックをつけて人前で朗読するようになり、1974年にはバックバンドを従えてシングル盤「Hey Joe/Piss Factory」をリリースする。
このシングルには、当時の恋人であったテレヴィジョンのトム・ヴァーレインも参加していた。
翌1975年にはヴェルヴェット・アンダーグラウンドを脱退したジョン・ケイルをプロデューサーに迎えてのデビューアルバム『Horses』をリリースする。
当時のニューヨークシーンから今にも生まれようとしていた“パンクの元素”がいっぱい詰まったこのアルバムは全米47位を記録し、まさにパンクの到来を告げる作品となった。




時を同じくしてニューヨークでは、ライブハウス『CBGB』を中心にラモーンズ、ブロンディ、テレヴィジョン、トーキング・ヘッズなどが続々と注目を集め始める。
そして、その知的かつ破壊的なサウンドとシンプルなファッションは、しだいに“パンク”と呼ばれるようになってゆくのである。
(ラモーンズは別格の存在として)当時ニューヨークで産声をあげた“パンク”は、どこか芸術運動のような側面も持ち合わせ、後にイギリスで広まったものとは少し趣を異にしていた。


ちょうどその頃、イギリスでアートスクールに通っていたマルコム・マクラーレンという男がアメリカへ渡り、ニューヨーク・ドールズのマネージャーを経て、テレヴィジョンを脱退したばかりのリチャード・ヘルを誘いイギリスでバンドを組ませようと画策をする。
しかし、リチャードはこの誘いに乗らなかった。
1975年にイギリスに帰国したマルコムは、当時ヴィヴィアン・ウエストウッド(ファッションデザイナー)と共にロンドンで経営していたブティック『SEX』(1971年の開店当初は『Let It Rock』という店名)に出入りしていたロンドンの不良達を集め、リチャードのファッション(破れたシャツ、逆立てた短髪、安全ピンなど)を真似させてバンドを結成する。
そのバンドこそが後のパンクシーンを代表するセックス・ピストルズだった。
彼らはろくに演奏もできなかったが、そのファッションと傍若無人な振る舞いや暴言が注目を集め、イギリス中でセンセーションを巻き起こす存在となる。


デビュー年や結成年に多少の違いはあるものの、ほぼ同時期にザ・クラッシュやザ・ダムド、そしてザ・ジャム、ザ・ストラングラーズを筆頭に、数々のバンドがそれぞれのスタイルで“ロンドン流のパンクロック”を体現しニューヨーク以上の盛り上がりをみせる。
またアメリカ西海岸では、ブラック・フラッグやデッド・ケネディーズといったコマーシャルなメディアに対して激しい敵意をもったバンドがカルト的な人気を集めだす。
その後ロンドンからアメリカへと進出したクラッシュが、スカやダブ(レゲエ)を取り入れながらパンクの音楽性を広げてゆくこととなる。
パンク自体がアメリカの音楽チャートを制したのは、結果的には90年代以降のことだった。
その立役者となったのがグリーン・デイやランシドの活躍、先達のラモーンズやクラッシュの功績があってこそのものだったということは周知の事実である。



──ニューヨークで発祥し、ロンドンを燃え上がらせ、今や国境を越えて世界中の若者たちを熱狂させているパンクロックは、今後もジョー・ストラマーが遺したこの言葉と共に時代を映し続けてゆくことだろう。

「PUNK IS ATTITUDE!NOT STYLE!」






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【TAP the POP佐々木モトアキ執筆記事】
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