1960年代の中頃、10歳になった彼は押し寄せてくるポップカルチャーをレコード盤から貪欲に吸収し始めるようになる。
両親が流す音楽に関心を持ちながらも、すでに反骨精神を胸に潜ませていたという。
「当時はくだらねぇスウィンギン・ロンドンの真っ最中で、一般市民はいわゆる甘々なショービジネスチューンを無理くり押しつけられていたんだ。俺にはビートルズの良さがまったくわからなかった。アイツらの髪型から何から全部気に入らなかった。」
1969年、13歳になった彼はちょっとしたバイトで小遣いを稼ぐようになり、自分で好みのレコードを買い漁るようになる。
「あの頃から俺はレコード収集に夢中になり始めたんだ。ロックとかポップスに限らず、文字通り“手当たり次第”に何でも聴いたよ。ラフマニノフ(戦前のロシアで活躍したピアニスト/作曲家)も好きだったし…例えば1970年の夏に発売されたばかりのストゥージズの新作“Fun House”なんか手に入れて興奮していたのを憶えてるよ。」
ある日、彼が部屋で手に入れたばかりのレコードを聴いていると、母親が近寄ってきて「これは誰なの?気に入ったわ!」と言ってきたという。
「おふくろは“Fun House”をえらく気に入って、心底感動してたよ。自分の親がストゥージズが好きだなんて…そりゃ反抗的な少年になんかなれないよな(笑)違った意味で早くこんな家から逃げ出したい!と思ったよ(笑)」
1971年、彼が15歳を迎えた頃、ロンドンではグラムロックが台頭し始めていた。
彼はT・レックスのサウンド、ルックス、レコードジャケットのアートワークに度肝を抜かれたという。
「とにかく“Electric Warrior(電気の武者)”を聴いた時にはタマげたぜ!あの野郎は髪をなびかせながら、軽々とツボを押さえた美しいギターを奏でやがって!さらにはボ・ディドリーへのオマージュも感じさせやがる!まったくあの神々しさときたら!」
さらに彼を刺激したのが「Moonage Daydream(月世界の白昼夢)」を歌うデヴィッド・ボウイだった。
「あの曲の肝はなんと言ってもミック・ロンソンのシビれるギターだ。俺の頭の中では未だに、生まれてこのかた耳にした中で最も素晴らしいサウンドとして不動の位置を確保しているんだ。スムースで、デリシャスで、独得なトーンを持っていて…あの頃、俺はあのサウンドに大きなチカラをもらったよ。」
デヴィッド・ボウイの存在がどれだけ大きかったか、またパンクロックの誕生にどんな役割を果たしたか、彼は自伝の中で貴重な言葉を綴っている。
「グラムロックの大半はグレイトだったが、ボウイほど複雑かつ高度なレベルなアーティストはいなかった。他の連中と違ってボウイには明確な自己主張があったし、そいつを当時の権力や体制側に対して、徹底意的に反社会的なやり方でガンガンぶつけていたんだ。だから俺はボウイに対してだけは一目も二目も置いていた。ボウイは自分の信念のために立ち上がった男だった。あれこそパンクにとっての最高の温床だったんだ。パンクは一晩のうちに始まったわけじゃないんだぜ!」
1974年、18歳になった彼はマルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドが共同経営するブティック『Sex』に出入りするようになる。
1975年、マクラーレンはアメリカのバンド、ニューヨーク・ドールズとの小ツアーから帰国し、スティーヴ・ジョーンズやポール・クックと共に新たなバンドの結成を模索していた。
『Sex』の店内でのオーディションで、ジョンがアリス・クーパーの「I’m Eighteen」を歌ってバンドへの加入が決まる。
彼らにはセックス・ピストルズというバンド名がつけられた…
<引用元・参考文献『Still a Punk: ジョン・ライドン自伝』ジョン・ライドン(著), 竹林正子(翻訳)/ロッキングオン>
<引用元・参考文献『ジョン・ライドン 新自伝 怒りはエナジー』ジョン・ライドン (著), 田村亜紀 (翻訳)/シンコーミュージック>
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