バート・バカラックは、1928年5月12日にミズーリ州のカンザスシティで生まれた。両親はユダヤ人だったが、日常的にシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)行くこともなく、自分たちがユダヤ人であること特に意識していなかったという。
「ユダヤ人であることについて他人と話すこともなかったし、幼心にも隠しておかなければならないことなのだろうと感じていました」
父親は息子が生まれた当時は男性用衣装のバイヤーをしており、のちに新聞コラムニストに転進することとなる。若い頃、歌手に憧れていた母親の勧めにより、8歳の頃からピアノのレッスンを受けることになった。
「学校から帰宅すると、毎日リビングに置いてあったアップライトピアノの前に座って30分間練習をさせられました。いつも心の中では他の友達と外でボール遊びをしたいと思っていました」
歌手になる夢をあきらめた母親は、息子に大きな期待をかけていた。母親の情熱はピアノだけではおさまらず、さらにその後ドラムも習うようになる。
しかし、当時のバートの夢は「スポーツ選手になりたい!」という少年らしいものだった。ティーンエイジャーになった頃、一家はニューヨークのフォレストヒルに移り住み、1943年、バートが15歳の時に大きな転機を迎えた。
「あれは太平洋戦争の真っ只中でした。その頃、新聞コラムニストとして有名になっていた父親に連れられてマンハッタン52丁目にあった小さなジャズクラブで生演奏を聴くようになりました。一番好きだったのがディジー・ガレスピーでした。
彼は私のヒーローでした。何をやらせてもクールで、あの特徴的なトランペットを吹く姿も大好きだった。あとはカウント・ベイシーのバンドも信じられないくらいエキサイティングでした。あの頃ジャズクラブで聴いた演奏は、私の世界を一変させました。誰かが大きくドアを開け、新鮮な空気が一気に吹き込んだような感覚でした」
バートの夢はその頃から自分が音楽をこよなく愛していることに気づき、どういう形でもいいから将来は音楽に関わる仕事がしたいと思い始める。
高校に通うようになったバートは、ジャズはもちろんのこと、幼いろからピアノで学んでいたクラシックにもあらためて関心を持つようになり、学内の音楽クラブに所属しチェロを弾いたり、仲間とバンドを結成してダンスパーティやコミュニティセンターでの催し物などに参加し、人前で演奏するようになる。
「ある日、ドライブの帰りに車中のラジオでモーリス・ラヴェルの“Daphnis et Chloé(ダフニスとクロエ)”を聴いた時、僕は音楽への道に進むことを決意したんだ」
高校卒業後、モントリオールのマッギル大学に進学したバートは、その後ニューヨークのマンズ音楽院とカリフォルニアのサンタ・バーバラ音楽アカデミーで学び、そこでダリウス・ミリョーやヘンリー・カウエルといった人達に師事しソルフェージュや楽譜の読み書きを習うこととなる。
また、22歳から24歳にかけては、軍の慰問団に加わってピアニストを務めながら、各地を巡演し貴重な経験を積んでいく。
この時期にポピュラーヴォーカリストとして活躍していたヴィック・ダモーンと出会い、序隊後はハリウッドで彼の伴奏を担当し、ショウビジネスの世界でプロの音楽家としてのキャリアの一歩目を踏み出した。
<引用元・参考文献『バート・バカラック自伝 – ザ・ルック・オブ・ラヴ』バート・バカラック(著)ロバート・グリーンフィールド(著)奥田祐士(翻訳)/シンコーミュージック>

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