1970年。後にソング・ライティング部門でグラミー賞を受賞することになる男は、食い詰めていた。1938年生まれのその男は、1956年に地元のオクラホマ州タルサ・セントラル高校を卒業すると、ミュージシャンを目指し、ロサンジェルスに渡った。2年後の1958年、ジョニー・ケイルの名前で「ショック・ホップ」というシングル曲でデビューした。だが、思ったような結果はついてこなかった。
食べるため、ナイトクラブで演奏する日々が続いた。ナイトクラブのマネージャーは少しでも、男の名前を憶えてもらおうと、J.J.ケイルと表記した。だが、それでもヒットには恵まれなかった。
男はタルサに帰る決心をした。音楽以外の何か、違う仕事を探して、故郷で暮らそう。そう考えたのである。だが、その時、ラジオから彼が書いた曲が流れてきた。
デレク・アンド・ザ・ドミノス解散後、ソロ・アルバムを録音したエリック・クラプトンが男の曲を取り上げ、シングル・カットしていたのだ。
「俺は本当に貧乏だった。食う金にも困るくらいだった。それに俺はもう、30代になっていた。嬉しかったさ。金が入ってくることがね」
J.J.ケイルとして知られるようになった男は、そう回想している。
エリック・クラプトンがカバーした「アフター・ミッドナイト」は、男が1968年に発売したシングル「スロー・モーション」のB面に収録されている曲だった。
だが、何故、クラプトンはJ.J.ケイルを見つけ出したのだろう。
クラプトンはデラニー&ボニーのツアーに参加していた頃、ベーシストのカール・レイドルと知り合っている。そしてカールはJ.Jと友人だった。カールがJ.Jのレコードをクラプトンに紹介していたとしても、不思議ではない。
いずれにしても、クラプトンはJ.Jの大ファンとなり、その音楽性に大きな影響を受けるようになる。そしてJ.Jはといえば、諦めかけていたミュージシャンとしてのキャリアを続けていけることになったのである。
J.Jは、クラプトンに再発見された後、自身のアルバムも発表するようになっていく。そして1976年、復帰後4作目となる「トルバドール」に収録されていた「コカイン」が再び、クラプトンにカバーされることになるのだ。
(このコラムは2017年8月24日に公開されました)