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27歳で引退を決めて日本を離れようと考えていた藤圭子〈後編〉~ 「あたし、嘘つくのいやだったんだ」

2023.08.21

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1979年の10月、作家の沢木耕太郎は翌年から朝日新聞に連載するノンフィクションを執筆するため、伊豆の山奥の温泉宿に長期滞在していた。

そんなある日、執筆に疲れて部屋のテレビをつけると、「藤圭子引退!」のニュースが大きく取り上げられた。

それに強い衝撃を受けた沢木は即座に山を降りて、藤圭子に連絡を取ってインタビューをさせてもらう約束を取りつける。

時代の歌姫がなぜ歌を捨てるのか、その問いと答えをインタビューだけで描き切る、そんなアイデアが浮かんだのだ。
沢木は数ヶ月前に偶然、知人を介して藤圭子と出会って、初めて言葉をかわしていた。

話の内容はとりとめもないことだったと思う。しかし、その最後にぽつりと藤圭子が言ったのだ。
「もうやめようと思うんだ」
それは、話の流れからすると、その前に「歌手を」、あるいは「芸能界を」とつくはずのものだった。


それから年末の引退コンサートまで、インタビューは回を重ねて行なわれた。
沢木は朝日新聞に連載する「一瞬の夏」と並行して、インタビューをもとにした原稿を執筆した。

その野心的なノンフィクション作品は、「インタビュー」というタイトルにするはずだった。
インタビューのなかで藤圭子は、「声が変わってしまったんだよ。まったく違う声になっちゃった」と、ポリープと診断された時に持って生まれた喉にメスを入れたことについて語っていた。

自分の声を失くしたときから絶望の淵に置かれて、引退を考えるようになっていたことがわかってきた。
決定的だったのは目の不自由な母が、思わず語った言葉を知ったときだったという。

あたしが本番の前に音合わせか何かをしてたらしいんだ。それをね、舞台の袖で聞いていたお母さんが、傍にいる人に訊ねたんだって。純ちゃんの歌をとても上手に歌っている人がいるけど、あれは誰かしら、って。


碓かにショックであったに違いない。
そのことによって精神状態が不安定になって、歌いたくないと思っても不思議ではないだろう。

それでも職業として歌手を辞めることは、周囲のことを考えたら簡単に決められるものではない。

藤圭子は育ての親だった石坂まさをの元から離れて、大手プロダクションに移籍して環境を変えることにした。
しかしヒットには恵まれなかった。

「当代随一のコンビが、初めて藤圭子のために書き下ろした曲」という謳い文句で、心機一転、新曲「面影平野」に挑むことになったのは1977年11月5日のことである。 

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妻の阿木燿子が作詞して夫の宇崎竜童が作曲するソングライターのおしどりコンビは、前年に山口百恵の「横須賀ストーリー」と内藤やす子の「想い出ぼろぼろ」をヒットさせて、高い評価を得ていた。
旬の時期にあったコンビの手になる作品がヒットすることへの期待は、本人も周囲も大きかったはずだ。

阿木燿子の歌詞について藤圭子は沢木によるインタビューのなかで、「どうしてこんなにうまく描けるんだろう、すごいっていう感じですごいんだよ」と話していた。
碓かに師匠だった石坂まさをの書く歌詞と比較したら、違いを感じるのが当然だろう。

だが感心はしたものの、”歌の心”がわからなかったと正直に語っている。

歌の心というのかな、歌が持っている心みたいなものがわからないの、あたしには。あたしの心が熱くなるようなものがないの。だから曲に乗せて歌っても、人の心の中に入って行けるという自信を持って歌えないんだ。すごい表現力だなっていうことはわかるんだけど、理由もなくズキンとくるものがないの。結局、わからないんだよこの歌が、あたしには、ね。


「面影平野」という歌は、藤圭子の心に引っ掛からなかった。
しかしもう一度考え直して、藤圭子はこう結論づけていた。

「あの〈面影平野〉がヒットしなかったのは、あたしが詞の心をわからなかったから‥‥‥だけじゃないんだよ。そう思いたいけど、やっぱり、藤圭子の力が落ちたから、なのかもしれないんだ」
「落ちた? なぜ?」
「もう‥‥‥昔の藤圭子はこの世に存在していないんだよ」
「どういうこと?」
「喉を切ってしまったときに、藤圭子は死んでしまったの。いまここにいるのは別人なんだ。別の声を持った、別の歌手になってしまったの‥‥‥」


「面影平野」の後、「銀座流れ唄」(1978年5月)、「酔い酔い酒場」(1978年10月)と、阿木燿子・宇崎竜童コンビの作品が続いたが、そこからヒット曲は生まれなかった。

7月に27歳を迎えた藤圭子はこのまま過去の名声に寄りかかって、歌い続けていても意味がないことを悟って歌うことをやめる意志を固めていく。

芸能界では一年先までは大まかなスケジュールが決まっている。
藤圭子が先の仕事を減らして身の回りを整理し、穏便に引退できる条件を整え始めたのが27歳、そのことを表明した10月17日には28歳になっていた。

そのニュースで引退を知った沢木耕太郎によって、単行本「流星ひとつ」として発表されることになる連続インタビューが行われた。

自分を見出してくれた恩師の石坂まさをから、ほんとうは18歳だったのに17歳だと嘘をつくように強いられて、嫌だなと思いながら芸能界にデビューしてから、ちょうど10年の月日が過ぎていた。
インタビューで会うたびに信頼が芽生えていく沢木に対して、藤圭子は周囲の人たちについてもかくさず、何でも正直に語った。

「あたし、嘘つくのいやだったんだ」
「えっ?」
「嘘をつきたくないから、いつでも本当のことを言ってきた。正直がいいことだと思って、自分のことをみんなさらけ出してきたけど、そんなことはなかったんだよね。タレントとか芸能人とかいうのは、隠しておけば隠しておくほどいいんだよね」
「そんなものなのかな」
「お母さんが眼が見えないということも、両親が旅芸人の浪曲師だったってことも、みんな本当のことだから恥ずかしがることはないと思ったし、貧乏だったということも、あたしが流しをしていたってことも、みんな本当のことなんだから、恥ずかしくないと思ってた。でも、隠しておくべきだったんだろうな……」
「そうだろうか」
「あたしこそ、もしかしたら芸能界に向いてないのかもしれないよ。冗談じゃなくて、ね」


12月26日に最後のコンサートの仕事を終えると、藤圭子はすぐにハワイに旅立ち、春にはアメリカ本土にわたった。
実は引退の理由のひとつに、英語の勉強をしたいということがあった。
英語の響きが耳にとても気持ちがいいという、声と歌と音楽に関係することが動機になっていたのだ。

インタビューを原稿用紙で500枚近い作品にまとめてみた沢木は、その出来栄えに納得したものの、そこから疑問が湧き起こってきたという。

引退する決意とともに、個人への歯に衣着せぬ批判なども語られていたので、出版したことが後々になって藤圭子の迷惑にならないかと逡巡したのだ。

そして出版の許諾を得たにもかかわらず、沢木はインタビューをまとめた作品を「お蔵入り」にする。
相当に苦渋の選択だったと思われるが、それが藤圭子のためになるとの判断だった。

藤圭子はインタビューの最後で、引退の道を選んだのは「歌をやめたいだけなんだよ。藤圭子であるかぎり、何をしようと変わらないはずだよ」と明言していた。

事実、引退してからも藤圭子は、藤圭子として生きていった。
ほんとうの藤圭子であるために、藤圭子は”別の声”で歌うのをやめたかったのである。
ニューヨークで結婚して女児を出産し、そのひとり娘をシンガーとして育てたのも、藤圭子であったからできたことだった。

どこまでもまっすぐで正直だった藤圭子が何よりも大切にしていた歌への純潔な思い、ほんとうの自分でいることへのこだわり、心と身体を通る芯のような精神は、幸いなことに娘の宇多田ヒカルに受け継がれていった。

それから30年以上の歳月が流れて、2013年に藤圭子が自ら死を選んだニュースを知ったとき、沢木は33年前に書いた「流星ひとつ」 を読み返した。

ニューヨークで結婚してからの藤圭子は知らない。しかし、私の知っている彼女が、それ以前のすべてを切り捨てられ、あまりにも簡単に理解されていくのを見るのは忍びなかった。
 私はあらためて手元に残った『流星ひとつ』のコピーを読み返した。そこには、「精神を病み、永年奇矯な行動を繰り返したあげく投身自殺をした女性」という一行で片付けることのできない、輝くような精神の持ち主が存在していた。


そして”輝くような精神の持ち主”だった藤圭子のことを、娘の宇多田ヒカルに読んでもらいたい、多くの人たちにも知ってほしい、そう思ったことから書籍として出版することを決めたという。

こうして一人のシンガーをめぐる貴重なノンフィクションが、日本の音楽史に残されたのである。








(注)藤圭子の発言および対話は、沢木耕太郎著「流星ひとつ」(新潮社)からの引用です。

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