20世紀のアメリカ音楽史を語る上で決して欠かせない存在、ハンク・ウィリアムス。
カントリーというジャンルで活躍しながらも、その影響力は1つのジャンルにとどまらず、ロックやフォークなどその後の音楽に大きな影響を与えた。
中でも多大な影響を受けたミュージシャンの1人として知られているのが、ボブ・ディランだ。ハンク・ウィリアムスの音楽に初めて触れたときのことを、自伝でこのように記している。
わたしが初めてハンクを聞いたのは、土曜の夜にナッシュヴィルから放送されるラジオ番組『グラン・オール・オープリー』で彼が歌ったときだった。
『グラン・オール・オープリー』は1925年から放送が始まったラジオ番組で、驚くことに現在もなお放送されている。ナッシュヴィルはカントリーの聖地と呼ばれているが、それはこの番組がカントリーの普及に大きく貢献したことによるところが大きい。
その番組に出演することを目指してナッシュヴィルへとやってきたハンク・ウィリアムスは、1949年についにその夢を実現させ、1952年までの3年間レギュラーで出演していた。
ディランが初めてハンクの演奏を聞いた放送がいつのものかは定かではないが、1941年生まれだから年齢でいうと8~10歳くらいの頃だ。
このときハンクが歌った「ムーヴ・イット・オン・オーヴァー」は、1947年にリリースされたハンクにとって最初のヒット曲で、夜遊びが原因で妻に家から閉め出されて犬小屋で寝る男の歌だ。
彼の声の響きがまるで電気棒のようにわたしを貫き、わたしは苦労してハンクの78回転盤――「ベイビー・ウィアー・リアリー・イン・ラヴ」「ホンキー・トンキン」「ロスト・ハイウェイ」――を手に入れ、それを繰り返し聞いていた。
ラジオで聞いてからというもの、ハンクの音楽にどっぷりとのめり込んでいったディラン。その魅力の1つは、淋しさや悲しみといった普遍的な人間の心情がストレートに、そして巧みに描かれていることだろう。
ハンクの歌う物語は、時代や年齢を超えて共感を呼び覚ましてくれる。それは幼き日のディランとて例外ではなかった。
わたしはまだ子どもではあったが、ハンクに自分を重ね合わせることができた。ハンクのような経験をしたわけではないのに、彼が何を歌っているのかがわかった。
そうして何年もハンク・ウィリアムスの音楽を聴いていたディランは、あるとき歌詞が厳格なルールのもとに書かれていることに気づいたという。それはディランが作詞作曲をする上で大きな指針となった。
ハンクの歌の構造は大理石の柱のように確固としていて、そこになくてはならないものだった。彼のことばまでが――彼が歌うすべての音節が、数学的にぴったり合うように分割されていた。ハンクのレコードには曲づくりの構造について学ぶ点がたくさんあり、わたしは何度も注意して聞き、それを自分のものにした。
ハンク・ウィリアムスから多くのことを学んだディラン。その敬意は衰えることはなく、2001年にはトリビュート・アルバム『タイムレス』に参加し、「アイ・キャント・ゲット・ユー・オフ・マイ・マインド」を歌っている。
また、2011年にはハンク・ウィリアムスが遺した未発表の歌詞をもとに、ジャック・ホワイトらとともに制作した『ザ・ロスト・ノートブックス・オブ・ハンク・ウィリアムス』を発表している。
そのボブ・ディランが2016年に、「アメリカの輝かしい歌曲の伝統の中で、新しい詩的表現を生み出してきた」としてノーベル文学賞を受賞したのは記憶に新しい。
新しい表現というのは得てして批評の的にされやすいものだが、時代の代弁者ともてはやされた1960年代前半、ディランはニューヨーク・タイムズ紙でロバート・シェルトンという評論家から「曲づくりのあらゆるルールを破っている」という批判を受けたという。
その点について、ディランは自伝でこのように説明している。
シェルトンが知っていたかどうかはわからないが、そのルールとはハンクのルールだった。わたしはそれを破るつもりはなかった。ただ表現しようとしたものが、そのなかに収まりきらなかった。
「型を身に付けねば型破りにはなれない」というのは中村勘三郎が広めた無着成恭の言葉だが、ディランもまた、ハンク・ウィリアムスやウディ・ガスリーらの音楽を徹底的に研究して身につけていたからこそ、そのルールを破って新しい表現を生み出すことができたのかもしれない。
※ボブ・ディランの発言はすべて『ボブ・ディラン自伝』(2005年)からの引用です
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