渡辺プロダクションという会社を設立した時から、渡邊晋社長と美佐副社長は「日本の音楽を世界に」という夢を掲げていた。
だから日本国内におけるビジネスの足場が固まってくると、二人の目は当然のように海外へも向けられた。
その夢を叶えてくれるのは、手塩にかけて育てたザ・ピーナッツを措いてほかになかった。
姉の伊藤エミと、妹の伊藤ユミからなる一卵性双生児の伊藤シスターズは、高校中退後に名古屋市内のナイトクラブなどで歌っていた。
シックスジョーズのピアニストである宮川泰と、ベーシストでバンマスでもあった渡邊晋が観に行ったのは1958年のことだ。
さっそく翌日に面談して渡辺プロダクション入りが決まった。
話を聞いて名古屋まで足を運んだ美佐は、清涼感あふれる声に魅力を感じて、二人をすぐに東京に呼び寄せた。
自宅に下宿させると歌と踊りだけでなく、礼儀作法、躾まで徹底して教えこんだ。
1959年に姉妹はザ・ピーナッツの芸名で、キングレコードから「可愛い花」でデビューした。
3枚目のシングルとなった「情熱の花」は、ドイツ中心にヨーロッパで活躍していたカテリーナ・ヴァレンテのカヴァーである。
それが縁でヴァレンテとのつながりが出来たザ・ピーナッツに、ヨーロッパからテレビ出演の依頼が持ち込まれたのは1963年の夏だった。
折しも坂本九の「SUKIYAKI」が世界中でヒットしている最中だったので、渡りに船とばかりに渡邊美佐はザ・ピーナッツを連れて渡欧した。
ヴァレンテとも再会して親しくなって帰国した渡邊美佐は、外国で歌えるようなオリジナル楽曲の必要性を感じて作曲を宮川泰に頼んだ。
無国籍歌謡の傑作と呼ばれるようになる「ウナ・セラ・ディ・東京」が、こうして誕生するのだ。
1963年12月に『カテリーナ・ヴァレンテ・ショー』に招かれたザ・ピーナッツは、「情熱の花」を歌ってヨーロッパ全体での認知度が高まった。
逆に「ウナ・セラ・ディ・東京」は、カテリーナ・ヴァレンテやイタリアの人気歌手、ミルバがカヴァーしてレコード化した。
カーメン・キャバレロやアルフレッド・ハウゼ・オーケストラ、マントヴァーニ・オーケストラなどもインストゥルメンタルでアルバムに吹き込んだ。
「SUKIYAKI」が世界中で大ヒットしてからわずか半年後だったから、日本の楽曲に対する関心が高まっていたことも関係していたのだろう。
それから半年後、西ドイツのババリア・プロダクションが制作するテレビ番組のために日本ロケを行ったディレクターが、ザ・ピーナッツを音楽番組に主演で起用してくれることになった。
1964年の9月から10月にかけてザ・ピーナッツはミュンヘンに約1か月滞在し、西ドイツのテレビ音楽番組『スマイル・イン・ザ・ウェスト』へ出演した。
歌あり、踊りあり、パントマイムありのミュージカル・ショーで、ザ・ピーナッツは英語とドイツ語で10数曲を歌った。
この番組はユーロビジョン(欧州共同体テレビ網)でオンエアされ、ドイツやフランスでもレコードが発売された。
アメリカへの本格的な進出は1966年の春だった。
ザ・ピーナッツはニューヨークに飛んで、CBSの人気番組『エド・サリヴァン・ショー』の収録に臨んだ。
そのリハーサル中にアクシデントが起こり、姉のエミが火傷を負って治療を受けに病院へ行った。
ところがアメリカではリハーサルを放棄した場合、不測の事故であろうが本番の権利を放棄したものと見做される。
それが原因で2曲を歌う予定だったのに、1曲しか歌えなくなった。
口惜しい思いで歌った1曲は、「恋人よ我に帰れ」だった
ザ・ピーナッツはそこからロサンゼルスへ飛んで、『ダニー・ケイ・ショー』のオーディションを受けた。
そして秋に3週連続で出演する枠を確保した。
『ダニー・ケイ・ショー』はエミー賞のバラエティ最優秀番組賞を受賞した人気番組だった。
そこで3週連続で出演することになれば、本来の実力を発揮できるとみて、渡邊美佐もリハーサルから1か月間、つきっきりでフォローした。
これは真剣勝負だと思った。
ザ・ピーナッツも前回の口惜しい思いを忘れてはいなかった。
毎日、スタジオでのリハーサルで振り付けを教わると、その足で特別に頼んだダンス教師のところに通い完璧に仕上げた。
振り付けられた手の位置から、一センチでも狂っているとダメが出るようなきびしいリハーサルを耐えぬいたのだ。
(「抱えきれない夢 渡辺プロ・グループ四〇年史」)
番組で歌うのは英語の歌、会話もすべて英語だった。
ザ・ピーナッツはボイス・トレーナーとダンス教師のもとでレッスンに励んだ。
『ダニー・ケイ・ショー』の収録が始まる9月まで、ロサンゼルスでは緊張の毎日が続いた。
ラン・スルー(全体の通し稽古)の出来次第では、有名な芸人や大物スターでも容赦なく本番から外されるという、厳しい現場だったのである。
だが無事に2回目の本番収録を済ませると、制作者側から最後の1曲は日本語の歌を選曲していいと言われた。
その時に渡邊美佐とザ・ピーナッツが選んだのは、オリジナル曲ではなく坂本九の「上を向いて歩こう」だった。
ダニー・ケイに「いい選曲だ。『スキヤキ・ソング』だったら、日本語の歌詞でもわかる」と、褒めてもらえた。
日本から持っていった振袖を着て「上を向いて歩こう」を歌った姉のエミは、その時ほど誇らしい気持ちで日本の歌をうたったことはないと語った。
「ありがとう、九ちゃん、と感謝しながらうたいました。うたいながら涙が出てきたのだけれど、それは感激したからじゃない。九ちゃんがうらやましかった。アメリカ人でも知っている曲を持っている九ちゃんは幸せだなと思った。そして次にアメリカで歌う時は私たちも自分のヒット曲がなければ駄目だと思った。歌手はヒットがあって、初めて評価されるのだから」
(野地秩嘉『渡辺晋物語 昭和のスター王国を築いた男』マガジンハウス)
この『ダニー・ケイ・ショー』出演後、渡邊晋と美佐は「日本の音楽を世界に」という夢についてあらためて考えるようになる。
海外で渡辺プロの所属アーティストのレコードやコンサートを展開するだけでなく、例えば日本人の楽曲を海外のアーティストに歌わせたり、日本の映画のリメイク権を販売するなど、ビジネスとして確実に成り立つ展開も行うようになる。
その一例としては、1975年にまだデビュー3年目の新人だったクイーンを招聘し、渡辺プロが全面的にバックアップすることで、初来日公演を成功に導いたことが挙げられるだろう。
クイーンはこの成功をきっかけにして、世界的なスーパースターへと羽ばたくことになったのである。
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