1970年、B.B.キングは黒人のみならず白人からも熱い支持を集めていた。
きっかけは遡ることおよそ2年、B.B.のもとで会計士をしていた白人のシドニー・サイデンバーグ、通称シドをマネージャーとして雇ったことだった。
全国を回りながら、毎回同じ場所で歌うという日々にマンネリを感じていたB.B.に、シドはこれまでB.B.の歌を聴いたことがない人たちの前で歌うことを提案したのだ。
はじめにシドが用意した舞台はヒッピー達の聖地、フィルモア・ウェストだった。
果たして彼らは自分の音楽に興味を持ってくれるのかと不安を抱くB.B.だったが、ステージに上がるやいなやスタンディングオベーションで歓声を上げるヒッピーたちを見て、B.B.は思わず涙がこみ上げてきたという。
B.B.キングが生涯最高の演奏と語ったヒッピーたちとの一夜
その後もB.B.はフォーク・フェスやロック・フェスといった舞台に出演し、白人層という新たなマーケットを開拓していった。
1970年1月にリリースしたシングル「スリル・イズ・ゴーン」は、全米R&Bチャートで3位になっただけでなく、ポップチャートでも15位というヒットを記録する。
そんなB.B.の元に刑務所で歌ってほしいというオファーが来たのは1970年の9月1日、シカゴで有名なジャズ・クラブ、ミスター・ケリーズに初めて出演したときのことだった。
このときB.B.とシドは白人層に続き、今度はジャズファンを取り込もうとしていた。そこへやってきたのが、黒人としてはアメリカで初めて刑務所長になったウィンストン・ムーアという男だった。
「君がこの“ミスター・ケリーズ”でプレイするのは今日が初めてだ。私も監獄の監視役になるのは初めてだ。さて、そこでだ。君も私も初めてってことを記念して、どうだろう、うちの囚人たちのために演奏してはくれまいか」
堀の内側では暴力や差別といった、理不尽なことがまかり通っている。そのことを刑務所帰りの友人たちから聞いていたB.B.は、そういった場所で本当に人は更生するのかと疑問を抱いていた。
もし自分の音楽が、そんな環境に置かれた彼らを立ち直らせるきっかけになるのであれば、きっとやるべきだろうと判断し、慰問コンサートを承諾する。
シドはその模様を録音し、ライヴ・アルバムとしてリリースすることを提案した。前年には、ジョニー・キャッシュがサンクエンティン刑務所で演奏したときのライヴ・アルバム、『アット・サンクエンティン』が全米1位の大ヒットとなっていた。
刑務所という特異な環境でしか生まれ得ない音楽があり、B.B.の慰問コンサートもまたきっと特別なものになるはずだと、シドは予感していたのだろう。
9月10日、シドニーに位置するアメリカ最大級の刑務所、クック郡刑務所の中庭には、およそ2000人の囚人が集められていた。
コンサートは司会の女性によるイントロダクションとともに始まった。
はじめはおとなしくしていた囚人たちだが、保安官や裁判官の名が紹介されると、途端に激しいブーイングが巻き起こる。
いつものコンサートとは違う異様な雰囲気に、B.B.もバンドメンバーも一抹の不安を抱いた。
しかし演奏が始まるとすぐに空気が代わり、2曲目の「ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット」でB.B.が「♪俺がアイツにフォードの新車を買ってやると、アイツはキャデラックがほしいとぬかしやがった」と歌うと、囚人たちは歓声を上げた。不安や緊張から解放されたB.B.が、改めて聴衆を見渡すと、そこにいる囚人のおよそ7割が黒人だった。
その光景は悲しくもあり、うれしくもあった。悲しいのは、こんなにも多くのブラザーたちが格子の中にいるから。うれしいのは、私の同胞の心に届くことができたからだ。
1時間にも満たない短い慰問コンサートは、熱烈な歓声に包まれながら幕を閉じ、B.B.は囚人たちの魂に触れることができたと、確かな手応えを感じとった。
それ以来、B.B.は忙しい日々の合間を縫っては、全米各地の刑務所を回り、囚人たちのためにブルースを歌うのだった。
B.B.キングと接したことのある人の多くが、謙虚で思いやりに溢れた素晴らしい人格者だと話しているが、このクック郡刑務所でのコンサートに耳を傾ければ、そんなB.B.の温かみに溢れた歌声と、円熟した演奏を堪能することができるだろう。
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