♪ スピードを落とすんだ
クレイジー・チャイルド
青春特有の野心がみえみえだ
それに、それほど利口だというのなら
何故に、それほど怯えてるんだい ♪
1949年、ニューヨークのサウス・ブロンクスに生まれたビリー・ジョエルは野心に満ちた少年だった。14歳でバンドに参加し、ヒックスヴィル高校時代には、クラシック・ピアノが得意だった父親の影響で始めたピアノをバーで演奏し、中退を余儀なくされている。その時ですら、ビリーはこう言い放ったものだ。
「僕はコロンビア大学に行くんじゃない。コロムビア・レコードに行くんだから、高校卒業の資格なんて必要ないのさ」
ビリーはその言葉通り、1971年、アルバム『コールド・スプリング・ハーバー』でコロムビア・レコードからデビューを果たす。だが、この作品に春が訪れることはなく、ビリーは失意のうちに、うつ病の症状を悪化させ、ロサンゼルスに移住する。この時、ビリーに連れ添ったのが、当時のマネージャーであり、後に彼の妻となるエリザベス・ウェーバーだった。
♪ その火はどこから来る
何を急ぐことがある
燃え尽きる前に頭を冷やした方がいい ♪
1973年、ビリーはアルバム『ピアノ・マン』で再デビューを果たし、成功を収めると、エリザベスを正式に妻へ迎える。そしてふたりは、ウィーンへと旅に出かけたのだ。
ウィーン。
そこはビリーの父、ハワード・ジョエルがアメリカにやってくる前に住んでいた土地だった。ユダヤ系であったハワード・ジョエルは、ナチスから逃れるために、スイス経由でアメリカへ亡命したのだ。
だが、ビリーの両親はずいぶんと前に離婚していた。ビリーはミュージシャン生活に没頭して以来、ほとんど父親と連絡を取っていなかった。そしてその当時、父ハワードはウィーンに暮らしていたのである。
ふたりはウィーンの街角で落ち合った。
ひとりの老女が道を清掃していた。
「あんなお年寄りに掃除の仕事をさせるなんて」と、ビリーは誰に言うでもなくつぶやいた。
すると、ビリーの父は低く、だが確かな声でこう返した。
「それは違う」
父親は言葉を続けた。
「彼女は役に立っているし、そのサービスで人々は恩恵を受けている。家の中でただ座って時を過ごしているのではない。彼女は威厳をもって暮らしているのだよ」
♪ いつになったら気づくんだい
ウィーンは君のことを待っている ♪
ここを卒業したら、次はここ、次はこの会社に就職し、その次は。。。
多くの学生がそんな特急列車に乗ろうとするように、ビリーもミュージシャンとして特注のリムジンに乗ろうと焦っていたことに気づかされたのである。
そしてこの「ウィーン」は今でも卒業シーズンに贈られる歌のひとつである。
(このコラムは2016年3月10日に公開されたものです)