1968年にビートルズが解散し、1970年代になると世界各地で新たなロックが生まれていった。
グラム・ロックやハード・ロック、パンクなど、ロックンロールを新たな形で表現するアーティストが出現し始めたのである。
それらの新しい音楽たちは1960年代にビートルズやストーンズを聴いていた若者たちが、既存のロックへのカウンターとして生み出したものであった。
そんな60年代から70年代にかけて少年期を経験したのが、ザ・キュアーのフロントマン、ロバート・スミスである。
「イギリスのカルトヒーロー」と呼ばれ、ジャンルにこだわらない音楽を生み出してきた彼のルーツには、その時代に生まれた様々なロック・ミュージックのエッセンスがあった。
イギリスの郊外で生まれたロバートは歌が好きな父とピアノを弾く母の元で、幼い頃から音楽に慣れ親しんでいた。
そして中学生になると、友人たちと共にキンクスやブラック・サバスなどのコピー・バンドを始め、ロックにのめり込んでいく。
とりわけ彼に大きな影響を与えたのは兄と姉だった。ロバートは10代の頃をこのように振り返っている。
「ニック・ドレイクの『ファイブ・リーブス・レフト』は兄貴が持っていたからかなり聴き込んだし、あとキャプテン・ビーフハートとかクリームもね。
姉貴はローリング・ストーンズばっかり聴いててさ、部屋からいつも『サタニック・マジェスティーズ』か『メインストリートのならず者』が聴こえてきたよ。
ラジオではスレイドとか、T・レックスが流れてて、僕はとにかくグラムにハマってたんだ」
60年代のブルースやサイケデリック・ロック、そして70年代のグラム・ロックを愛聴していた彼は、やがて地元のライブハウスに足繁く通うようになる。
そして18歳になろうとしていたロバートは、1976年から1977年に巻き起こったパンク・ムーブメントを目の当たりにする。
彼が通っていた地元のレコード屋では全英チャート1位を記録したセックス・ピストルズの「ゴット・セイヴ・ザ・クイーン」が流れ、地元のライブハウスではクラッシュやバズコックスが演奏していたのだ。
ロバートは、パンクの荒々しさやラフさ、そしてシンプルなメロディに大きな衝撃を受けた。
「僕はパンクのメロディックな面にすごく惹かれたんだ。あと早々に気づいたのは、あらゆるムーヴメントと同じく、良い面とクソみたいな面があるってこと。単に安全ピンをつけてパンクを気取るとかそういうことはどうでもよくて。僕が立ち上がって自分の音楽を作ることだったんだ」
こうしてロバートは自らもバンドを組み、パンク・ムーブメント真っ只中の1976年に初めてライブハウスのステージに立つ。
やがて、同じステージに立ったバンドメンバーたちと共に、自らがフロントマン務めるイージー・キュアーを結成する。
イージー・キュアーはめきめきと頭角を現し、1978年にはバンド名をザ・キュアーに改名。
そして1979年、ザ・ジャムのスタジオを借り、3日間でレコーディングしたアルバム『Three Imaginary Boys』をリリースする。
ラフで力強い演奏と、気だるくメロディアスなボーカルが印象的なこの作品は、ロバートが聴いてきたブルースやグラム・ロック、パンクの影響を感じさせるものであった。
しかしレコーディングの時間が満足に取れなかったことに加え、曲順やアートワーク、収録曲の決定権をプロデューサーに握られたことに、大きな不満を抱いていた。
しかしそれがロバートの創作意欲にさらなる火をつけることになる。翌年、徹底的に自分の作りたい音楽を追求しセルフプロデュースで制作した作品『Seventeen Secounds』をリリース。
彼が愛聴したニック・ドレイクの『ファイブ・リーブス・レフト』やデヴィット・ボウイの『Low』から着想を得たアルバムは、ニュー・ウェイヴの雰囲気をまとった、退廃的でメランコリックな演奏とメロディが鳴らされていた。
パンクに感銘を受け、ステージに立ったロバート・スミスはパンクのDIY精神を受け継ぎながら、自らの音楽を追求し「イギリスのカルトヒーロー」へと成長していくのであった。
(ロバート・スミスの発言は『rockin’on』2015年4月号 『ロバート・スミス 2万字インタビュー』より引用しています)