ヤマハが主催する第9回「ポプコン」(1975年)で「傷ついた翼」で入賞したことから、北海道のアマチュアでは知られる存在だった中島みゆきに、メジャーのキャニオン・レコーードからデビューする話が起こった。
そのときに入賞した「傷ついた翼」よりも、「アザミ嬢のララバイ」のほうがヒットする可能性が大きいと、的確なサジェッションした人が歌手活動を本格化するようにと説得した。
中島みゆきは1975年9月25日にキャニオン・レコードより、シングル盤「アザミ嬢のララバイ」でデビューした。
だが彼女はデビューの条件として、それまで通り札幌に住み続けることや、宣伝活動などは行わないことを認めてもらった。
ところが同じ年の11月に開催された「世界歌謡祭」に出演し、新曲の「時代」でグランプリに輝いたことから、まわりの状況が大きく変化していく。
歌謡曲の世界でも通用する作家としての可能性に気がついたのは、元スパイダースのリーダーで田辺出版エージェンシーを創業した田辺昭知である。
ユニークな才能を持つ研ナオコとタモリのエージェントを始めた田辺は、そこから芸能界の新たなリーダーの一人になっていく。
1976年に中島みゆきのファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』が出た時に、それを聴いてすぐにアプローチしたという。
ぜひ会って話がしたいと申し入れてきた田辺は、中島みゆきと食事をしながら話すうちに、研ナオコのアルバムに楽曲を提供してほしいと依頼した。
さいわいにも中島みゆきは研ナオコのデビュー曲の「大都会のやさぐれ女」を覚えていて、しかもCMのキャラクターとし人気が出てきたことを、好意的に思っていたということがわかった。
当時の週刊誌の取材では本人の言葉として、そのことがこのように明らかにされていた。
「“オレは美人しか撮らない” “ガハハハハ” “だからフィルムは入ってない”っていう、あのカメラのテレビCMを見た時、いいなァと思ったのよ。女のコなら誰だって、あんな顔でバカ笑いしたくないはずなのに、あのヒトはピエロになり切っている。それと同じ振幅でハネ返ってくるのは、ひとりぼっちの女のサビシサ。私にはそれがよくわかるのよ。」
(1976年12月 「中島みゆき 札幌 マイ・ウェイ人生」週刊明星)
田辺社長との話し合いはスムーズに決まって、中島みゆきはアルバムにいくつかの楽曲を提供することになった。
そして全部で6曲がレコーディングされたアルバム『泣き笑い』の中から、「LA・LA・LA」がシングル発売されてヒットした。
さらには秋口になってから「あばよ」がシングル・カットされると、オリコンで1位を記録したのである。
その週刊誌には中島みゆきが「あばよ」について、こんな話をしてくれたのだとも書いてあった。
「私自身のことを書いたのよ。器用じゃないから、フィクションが歌にできないの。自分の体験、自分の気持ち、いつでもそれが出ちゃう」
(1976年12月 「中島みゆき 札幌 マイ・ウェイ人生」週刊明星)
研ナオコの「あばよ」と「LA・LA・LA」が連続ヒットしたことによって、女性ならではの感性を持つシンガー・ソングライターとして、中島みゆきは確固たるポジションを築いていく。
その一方では1977年に自分自身の「わかれうた」をヒットさせて、歌謡曲とニューミュージックの境界線を躊躇なく超えて、著しい活躍をすることにもなっていったのである。