デビューして12年、いつもヒット曲を追いかけるのではなく、自分にふさわしい歌を目指して活動し始めたちあきなおみは、シャンソンを日本語詞でカヴァーしたアルバム『それぞれのテーブル』(1981年)、ジャズをカヴァーした『THREE HUNDREDS CLUB』(1982年)、ポルトガルのファドを日本語詞で歌った『待夢』(1983年)に取り組んだ。
27歳になったちあきなおみは、本当に歌いたい歌を求めて長い旅に出た
さらに1985年には、日本のスタンダード・ソングをカヴァーした『港が見える丘』を発表した。それから3年もの時間をおいて、ふたたびオリジナルの歌謡曲路線へ復帰するアルバムを作ることになった。その話を耳にした作曲家の杉本眞人は、そのアルバムにぜひ楽曲を提供させてほしいと申し出た。
1988年3月1日に発売になったちあきなおみのアルバム『伝わりますか』は、タイトル曲となった飛鳥涼による「伝わりますか」がラストを飾った。そしてオープニングに選ばれたのが、杉本の提供した「かもめの街」である。この曲は書き下ろしではなく、杉本の手元にしばらく眠っていた作品だ。
「伝わりますか」
1972年に作詞家として仕事を始めたちあき哲也が、庄野真代のヒット曲になった「飛んでイスタンブール」で広く認められたのは1978年のことだ。
それ以後は矢沢永吉の「YES MY LOVE」や「止まらないHa~Ha」、近藤真彦や少年隊などの作品を手がけながら、ちあきは本業のからわら渋谷の道玄坂上でスナックを開いていた。
シンガー・ソングライターとして1975年にデビューした後、作曲家となって成功した杉本とは楽曲作りのコンビだけでなく、心の通じる飲み友達という間柄だった。(注)
そんな二人が夜更けまで飲んだ帰りの明け方、渋谷の街で目にした風景から、ちあきのなかで詩が浮かんだという。
カラスをかもめに、渋谷を浜辺に見立てて、ちあきはほろ酔いの女が主人公の歌を書き上げた。前半の語りのパートと後半の歌うパートから出来ている歌詞は、一人語りの口語体だが破調ゆえに、メロディをつけるのが難しそうなものとなった。
しかし、それを渡された杉本には字数がそろっていないことなど、それほど大きな問題ではなかった。杉本は吉田拓郎に触発されてシンガー・ソングライターとなったのである。
やがて歌詞に導かれるように浮かんだひらめきのメロディから、スケール感のある楽曲が完成した。ところが、これを歌手に歌わせるとなると、難しい曲だったのでなかなか日の目を見なかった。
カラオケ・ファンの間でちあきなおみが歌う「かもめの街」が評判になったのは、アルバム『伝わりますか』が発売になってしばらく経ってからのことだ。歌うのが難しい楽曲だからこそ、カラオケ上手がこれを歌いたがるようになったのである。
そしてプロの世界でも、歌唱力に長けた女性シンガーが次々にカヴァーを発表してきた。作曲した杉本もまた、すぎもとまさとの名前でセルフ・カヴァーしている。
ところでこの曲をちあきなおみが歌ってくれることになったとき、杉本は「うろ覚えなので先生、ちょっと歌ってくださる?」と言われて、弾き語りで歌って見せたそうだ。ちあきなおみからは「お上手ですね」と褒め言葉をもらった。
次に杉本のギター伴奏で、本人が歌ってみることになった。そして最初のフレーズを歌い出したとき、その声を聴いた杉本は鳥肌が立って、一瞬、ギターが弾けなくなったという。
歌うのが難しい楽曲はついに、最もふさわしいシンガーに出会ったのである。
「かもめの街」はちあきなおみが事実上、芸能活動を引退した1992年以降も、ちあき哲也が2015年に逝去した後も、カラオケファンにとどまらず、多くの音楽ファンの間で生き続けている。
(注)すぎもとまさとが2007年の「第58回NHK紅白歌合戦」に初出場したヒット曲、「吾亦紅」もちあき哲也とのコンビで作った作品だった。
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