彼の生い立ちは複雑だった…
母親のパトリシアは彼を産んだ当時、未婚の16歳だったという。
父親は英国に駐留していた既婚のカナダ兵だった事から、彼は祖母に預けられて彼女の再婚相手の子供(実母とは異父兄弟)として育てられたのだ。
彼は13歳の誕生日に祖父母から本物のガットギターをプレゼントしてもらい、ギタリストとしてのキャリアをスタートさせる。
毎日のように家の階段の最上段に座っては、レコードで聴いたものとソックリな“響き”を作り出して楽しんでいた。
ギターを弾き始めた頃のエリック・クラプトンに影響を与えたのは、ビッグ・ビル・ブルーンジーだった。
「彼が演奏していた“ヘイ・ヘイ”という曲にノックアウトされたんだ。メジャーとマイナーの間を行き来するブルーノートノートスケールがたくさん出てくる複雑な曲なんだ。その後、ロバート・ジョンソンを聴いた時“ロックンロールは、さらに言えばポップミュージックのすべてのルーツはここから生まれている”と確信したんだ。」
音楽が生活のほとんどを独占しはじめると、当時通っていたキングストン・スクール・オブ・アート(キングストン大学のデザイン科)での勉強が犠牲になりだした。
ある時、彼は学校側から「これ以上、やる気のない人間を置いておくことはできない」と宣告される。
「僕にとってアートスクールを追い出されたのは通過儀礼の一つだった。これからの人生、すべての扉が自分のために開くわけではなく、実際にはそのいくつかが閉じようとしていることに気づかされたんだ。僕を育ててくれた祖父母はがっかりしていたよ。そして落伍者となった僕は、家に一緒に住むつもりなら働いて金を入れるように!と言われたんだ。」
彼は翌日から祖父がやっていた仕事の助手として働くことにした。
祖父は左官屋兼大工の親方で、レンガ職人としても仕事を請け負っていた。
程なくして、彼は祖父母をどうにか説得してエレキギターを買ってもらう。
彼が選んだのは、ロンドンにある楽器屋のショーウィンドウで目をつけていた“KAY”というメーカーのセミアコギターだった。
「アレクシス・コーナーが弾いていたものと同じで、ダブルカッタウェイの最新モデルだった。当時としてはかなり先をいっていた楽器だったが、基本的にはギブソンのES-335のコピーにすぎないものだった。ギブソンは100ポンド以上したから手が届かなかったけど、KAYなら10ポンドだから何とか説得できたんだ。」
念願のエレキギターを手に入れたものの…アンプまでねだることはできず、しばらくはそのギターに電気を通すことはなかったという。
「アンプを鳴らせばどんな音がするんだろう!」彼は日々想像しながら練習に励んでいた。
チャック・ベリーやジミー・リードの曲をマスターしながら、そのうちに遡ってカントリー・ブルースにも興味を持ち始めたという。
「1930年代にロバート・ジョンソンが録音した29曲を集めた“King of the Delta Blues Singers”というアルバムを聴いたのがきっかけだった。彼のプレイを手本にすることが、僕にとって一生の仕事になるだろうと思ったんだ。」
それはまさに“はじめの一歩”だった。
クラプトンにとって“人生を変えた人物”がロバート・ジョンソンだった。
彼は他のどの歌手やギタリストよりも、ロバート・ジョンソンのプレイ(技術)を研究したという。
「彼の音楽を聴くまで自分が聴いてきたもののすべてが、まるでどこかの店のウィンドウのために着飾っていたもののように思えたんだ。初めて耳にしたジョンソンのサウンドは、彼自身のためだけに歌っているようだった。あるいは時としてそれは、神に向けられていたのかもしれない。」
<引用元・参考文献『名盤の裏側:デレク&ザ・ドミノス インサイド・ストーリー』ジャン・レイド(著)、前むつみ(訳)/シンコー・ミュージック>
<引用元・参考文献『エリック・クラプトン自伝』エリック・クラプトン(著)、中江昌彦(訳)/イースト・プレス>
【佐々木モトアキ プロフィール】
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【TAP the POP佐々木モトアキ執筆記事】
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