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ヨーロッパの洗練がアメリカの土くささにブレンドされて、新しいポップスが誕生~『ひこうき雲』

2016.01.15

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偶然が重なっているんだよね~松任谷由実


アルバム『ひこうき雲』は1973年の初夏に、本格的なレコーディングが始まった。
GSブームとともに若手作曲家として一気に抬頭した村井邦彦が、新しい時代の音楽を創造する夢を託して始めた音楽出版社のアルファ・ミュージックが原盤を制作した。

アレンジと演奏を担当したのは、結成まもないキャラメル・ママだった。


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19歳だった荒井由実のシングル盤「返事はいらない」は、かまやつひろしがプロデュースして仲間のミュージシャンたち、高橋幸宏や小原礼などと一緒にレコーディングした作品だ。。

しかし今になってみれば誰もがその通りだと納得できるキャッチフレーズ、「シンガー&ソング・ライター界のスーパー・ヤング・レディー!!」のデビューは空振りに終わってしまう。
ほとんど注目されなかったそのシングル盤は、1972年7月に東芝レコードから発売されたがまったく売れなかったのだ。

ユーミンの作る楽曲に期待をかけていた村井は、「返事はいらない」の仕上がりに違和感を感じたこともあって、アルバムではアレンジを元はっぴいえんどの細野晴臣に頼むことした。

その頃の細野はアラバマ州の外れにある小さな町、マッスルショールズのスタジオで仕事をするミュージシャンたちが作り出す、独特のサウンドに強く惹かれていた。


マッスルショールズ

アメリカにはそうしたミュージシャンのチームやスタジオがいくつか存在し、そこでしか出せない独自のサウンドによるヒット曲や傑作アルバムが生まれていた。

73年の2月から3月にかけてレコーディングした初のソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』は、リラックスできる自宅で細野が気の合うミュージシャンたちと、およそ一か月かけてセッションしながら仕上げたものだ。


hosonohouse

そこに集まったミュージシャンたちとチームを組んで、その後も活動したいと思って結成されたのがキャラメル・ママである。
はっぴいえんどから細野晴臣と鈴木茂、小坂忠のバック・バンドだったフォー・ジョー・ハーフから、林立夫と松任谷正隆が参加した。

当時のレコーディングといえばそのほとんどは、編曲者が書いたパートごとの譜面をもとにしてジャズ出身のミュージシャンによるコンボ、またはフルバンドで吹き込むスタイルだった。
そこではスタジオに集まった大人数のミュージシャンたちが、機能的に効率よく短時間で仕上げることが基本になっていた。

それに対してキャラメル・ママの場合は少人数で譜面を用意しないことが多く、リズム・セクションによるヘッド・アレンジに特徴があった。
簡単なコード譜や歌詞を手がかりにお互いのフィーリングを尊重し、アイデアを出しあいながらスタジオでじっくり仕上げていく方式だ。

ただし時間を気にせずにセッションしながら作るとなれば、1時間単位で料金をカウントされるスタジオで、はコストがかかりすぎることが問題になる。
細野は5月に南正人のアルバムをプロデュースしたときにも、八王子の山の中にあった南の自宅に録音機材と楽器を運び込んで、自分のソロ・アルバムと同じ方式でレコーディングしていた。


南正人ファースト

村井は荒井由実に対して、「ユーミンの音楽とブレンドすればきっと素晴らしい作品になるんじゃないか」と、キャラメル・ママとのセッションでレコーディングすることを提案した。
だがイギリスのハード・ロックやグラム・ロックが好きだった荒井由実は、アメリカのウェストコーストや南部のサウンドにはまるで興味がなかった。

実際にキャラメル・ママと南正人のレコーディングを見るために、荒井由実は築200年という古いわらぶき屋根の農家に足を運んだ。

 私ああいう土くさいバンドとかの系統やボブ・ディランは全然聴いてなかったし、きらいだったわけ。
だからエーッとか思ったんだけど、ともかくそれで録音して出したわけ。
もう夢中でアルバムつくった。


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この時に幸運だったのは村井が念願の自社スタジオAをオープンした直後だったことである。
社長である村井の判断で制作費のことなど気にせず、思う存分好きなだけ時間を使えることになったのだ。

村井ははじめから、制作にかかるコストを無視していた。
最新鋭のマルチ・レコーディング機器が揃ったスタジオが完成し、そこに最高のミュージシャンたちが集まった。
しかも好きなだけ時間をかけてかまわないという恵まれた環境だったから、レコーディングはすこぶる順調に進んだ。

全然気にしなかったね。
そもそも自分の好きなレコードをとことん作りたいという気持ちでアルファレコードを作り、スタジオAを作ったわけですから。
制作費がいくらで、回収するためにどのくらい売ればいいのかなんて、考えたこともなかった。


しかしユーミンにはその後から、長くつらい道のりヴォーカル録音が待っていた。
レコーディングのディレクターだった有賀恒夫が、その当時をこう振り返っている。

肝心の歌入れは難航しました。
いざ録ろうとすると、バックの演奏レベルが高いだけに、ユーミンの歌の拙さが耳についたんです。
どうしてなんだろうと考えてみると、彼女の声はずっと細かく震えていたんですね。


〝ちりめんビブラート〟と呼んでいた細かい声の震えをなくすようにと、有賀はサジェッションして徹底的に追求した。
こうしてノン・ビブラート唱法が編み出されたのだ。

私の歌い方はビブラートがきれいにかかんないし、それだったらビブラートをなくしちゃえっていわれて、ノン・ビブラートになったのが今も続いてるわけ。
偶然が重なっているんだよね。
私の詞とか曲とかっていうのは、ノンビブラートで歌うことが合ってたのかもしれない。
すごく無機的に突き放して歌ったほうがいいのかもしれない。
それが新しさだったのね。
ある種、西田佐知子とかの系統だったのかもしれないね。
それで、でき上がったものはそのアメリカのどろ臭さと、ヨーロッパっぽいものの変なブレンドの、おもしろいものになったと思う。


若いながらも時には厭世観さえ漂う詩によるファンタスティックな世界と色彩を感じさせる新鮮で豊かな音楽の深み、そして日本語のロックを確立したはっぴいえんどの系譜を受け継ぐ、キャラメル・ママのサウンドが絶妙にブレンドされて化学反応を起こした。
アルバム『ひこうき雲』は日本の音楽史に新しいページを開いた。



(注)松任谷由実の発言は「ルージュの伝言」(松任谷由実著 角川文庫)、村井邦彦と有賀恒夫の発言は『週刊現代Special 2016年新春特別版』からの引用です。


荒井由実『ひこうき雲』
EMI Records Japan

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