街の歌

東京〜まだ“遠距離恋愛”という言葉がなかった時代に描かれた名曲の誕生秘話

2017.10.22

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この歌が発売された1974年(昭和49年)と言えば「巨人軍は永久に不滅です」という名台詞を残して長嶋茂雄が現役引退をした年である。
セブンイレブンの第1号店が東京都江東区に出店され、ハローキティが誕生し、モンチッチが流行し、フィンガー5がヒット曲を連発していた時代。
当時はまだ“遠距離恋愛”という言葉が定着していなかったという。
そんな時代に、地方出身の若者たちの心を鷲掴みにした一曲の歌があった。
「東京」というシンプルなタイトルがつけられたその歌には、離ればなれに暮らす男女の切ない恋物語が描かれていた。
歌ったのは“マイ・ペース”という名前のフォークグループ。
メンバーは、この歌の作詞作曲をした森田貢(もりたみつぐ/リードボーカル、ギター、ベース)と、根次男(こんつぎお/リードギター、ボーカル)、伊藤進(いとうすすむ/フルート、ボーカル)の3人。
彼らは秋田県の昭和町飯田川町組合立羽城中学校(現在の潟上市立羽城中学校)の同期生で、学生時代に“ザ・リップス”というグループを結成する。
60年代末から70年代にかけて“秋田フォーク界の中心人物”と言われた山平和彦との出会いをきっかけに、山平のバックバンド“ザ・ラブ”として活躍するようになる。
1974年、3人は山平のプロデュースの下、この「東京」でデビューを果たす。
彼らのディレクターを担当した岩田廣之は、当時のことをこう語っている。

「あの曲は“ノープロモーション”でした。当時うち(ビクターレコード)の主流は演歌と歌謡曲でしたので、正直なところ会社からはまったく注目されていませんでした。ところが、発売してすぐに名古屋のラジオ番組の深夜放送から火がつき、全国の有線放送にリクエストが飛び火する形で、フォークソングでは異例の100万枚を越えるミリオンヒットとなりました。いま考えると“自然発生的ヒット”というか…神様が世の中に出してくれたとしか思えません。」

最終電車で君にさよなら
いつまた逢えると聞いた君の言葉が
走馬燈のようにめぐりながら
僕の心に灯をともす
何も思わずに電車に飛び乗り
君の東京へ東京へと出かけました
いつもいつでも夢と希望をもって
君は東京で生きて来ました

東京へはもう何度も行きましたね
君の住む美し都
東京へはもう何度も行きましたね
君が咲く花の都


当時、この歌の作者である森田の恋人は秋田を離れ東京で仕事をしていたという。
休日になれば森田は電車に乗って彼女のいる東京へ会いに行っていた。
あるインタビューで森田は曲の誕生にまつわるエピソードをこんな風に語っている。

「秋田時代からおつきあいしていた彼女が東京にいました。今でいう長距離恋愛ってやつですね。曲は“憧れの東京”って感じの仕上がりになっているけど、地方にいる僕にすれば“東京に彼女を取られた”って思いの方が強かったなぁ。東京なんぼのもんじゃい!ってね(笑)新幹線の下り『こだま』の車中でサビの歌詞を思いついたんです。♪東京へはもう何度も行きましたね…あとの部分は悩みに悩んで書いた記憶があります(笑)当初の歌い出しは♪病の床から君を思えば…確かそんな歌詞でした。暗い歌だったんです(笑)」

秋田から岐阜に拠点を移して名古屋のラジオ番組のDJなどで人気を得ていた山平和彦をたよって、彼ら3人も1973年(デビュー前年)に移住して合宿生活をしていたという。
つまり、この歌には秋田と東京、そして岐阜を行き来していた恋人たちの物語が描かれているのだ。

君はいつでもやさしく微笑む
だけど心は空しくなるばかり
いつか二人で暮らすことを夢見て
今は離れて生きて行こう
君に笑ってさよなら言って
電車は走る遠い道を
あぁ今すぐにでも戻りたいんだ
君の住む町花の東京

東京へはもう何度も行きましたね
君の住む美し都
東京へはもう何度も行きましたね
君が咲く花の都


<参考文献『フォーク名曲事典300曲』/富澤一誠(ヤマハミュージックメディア)>

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