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歌のモデルとなった家出少女、メラニー・コーの追想 part1

2016.04.07

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彼女は (私たちは、人生のほとんどを捧げてきたのに)
家を  (ほとんどの人生を犠牲にしてきたのに)
出ていく(お金で買えるものは何でも与えてきたのに)
彼女は家を出ていく
ずっと孤独な生活をしてきたのだから(バイバイ)

ポール・マッカートニーがデイリーミラー紙に掲載されたその一面記事に目を通したのは、1967年の2月27日だった。

突然、姿を消した17歳の少女は美しく、家も裕福だった。デイリー・ミラーが「Aクラス」と表現したのは、彼女がファッション・センスにもすぐれ、ロンドンではかなり名の知れた少女だったからである。
「どうして逃げていかなくてはいけなかったのか、私には理由が思いつかない」と、彼女の父親がコメントを残していた。「彼女のものはすべて、ここにあるというのに」

「すぐに歌詞のイメージが浮かんだんだよ」と。ポールは語っている。
「そっと部屋を出て、書置きを残した後、両親が目を覚ますのさ」


水曜日の朝5時
夜明けとともに
静かに寝室のドアを閉め
うまく伝わるようにと
願いを込めた書置きを残すと
彼女はハンカチを握り締め
階段を下りてキッチンに向かい
音を立てないように裏口のドアの鍵を開け
外に出れば、そこは自由

家出した少女、メラニー・コーが当時の出来事を振り返ったのは、2008年、ガーディアン紙でのインタビューだった。

「当時のロンドンは、今とはずいぶんと違っていました。(ソーホーにあったクラブ)バッグ・オー・ネイルズに行けば、誰にでも会えたんです。隣のテーブルにビートルズがいたり、ローリング・ストーンズがいたり、ホリーズがいたり。あの頃のロンドンには、そう多くのクラブがあったわけじゃなかったから」

メラニーは美少女で通っていた。そして彼女のファッション・センスは際立っていた。
彼女のお気に入りは、マリー・クワントだった。マリー・クワントは愛車miniからヒントを得たミニ・スカートで大ブレークしたファッション・デザイナーで、メラニーはよく彼女のブティックに通ってはデザインをスケッチしたものだった。
スケッチはすぐ叔母のところへ届けた。叔母にスケッチそっくりの服をつくってもらうためだった。
すぐに新しい服が欲しい時には、ビバに出かけた。尖ったファッション・ブランドとして1960年代に登場したビバの服は、ティーンのお小遣いでも手が届いたからだ。

彼女は最先端のファッションに身を包んで「レディ・ステディ・ゴー」の番組収録に出かけた。「レディ・ステディ・ゴー」は1963年に始まったイギリスITVのロック番組で、ビートルズも出演している。
メラニーが初めて、その番組収録に出かけたのは13歳の時だが、そこからは、客席の常連となった。可愛くて、ファッショナブルの彼女が客席にいることをプロデューサーが望んだからだった。
1963年10月4日。ビートルズが「レディ・ステディ・ゴー」に出演した日にも、メラニーは客席にいた。


シェイク・イット・アウト、ベイビー・ナウ
ツイスト&シャウト!

ショーはジョンが歌う「ツイスト&シャウト」で始まった。ジョンは続けて「アイル・ゲット・ユー」を歌った後、ポールが「シー・ラヴズ・ユー」をジョンと共にシャウトした。だが、メラニーのハートを射止めたのは、静かにギターを弾き続けるジョージだった。彼女がジョージをお気に入りだったのには理由があった。ジョージはリハーサルの時から優しかったし、彼女は後にジョージと結婚することになる人気モデル、パティ・ボイドに自分が似ていると内心思っていたのだ。

そしてビートルズの演奏が終わると、ダンス・コンテストが開かれた。ブレンダ・リーの「レッツ・ジャンプ・ザ・ブルームスティック」に合わせて、客席から選ばれた女の子たちがダンスを披露するのである。審査員はポール。そしてポールが優勝者として選んだのが、メラニー・コーだったのである。
その日から、彼女は毎週、番組で踊るようになった。



メラニーはそんなふうにして、ロンドンの「業界」と接点をもつようになっていった。そして、そんな彼女にミュージシャンたちが声をかけるのは、時間の問題だった。

(part2に続きます)



ザ・ビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』
EMI

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