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「拘置所のトイレをあけるとねずみが顔を出し楽しい」と書かれていた手紙から生まれた「ひとり寝の子守唄」

2018.03.09

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東京大学に在学中だった1965年に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し、翌年に「誰も誰も知らない」で歌手デビューした加藤登紀子は、セカンド・シングルの「赤い風船」がレコード大賞新人賞に選ばれて、マスコミでの話題が多い歌手として芸能活動をしていた。

日本アマチュアシャンソンコンクールを公演していたスポーツニッポン新聞社の音楽記者だった小西良太郎は、担当者としてアマチュア時代から加藤登紀子に密着して取材する立場にあった。
そして、一見すると順風満帆に見えた加藤登紀子の歌手生活が、実は根底から揺らいでいることに気づいた。
小西は著書のなかで、このように記している。

仕事はお定まりのキャバレー回り、静岡では客の漁師に野次り倒されて、居直って童謡を歌ったりする。
下積み暮らしが我慢ならなかったわけではない。
歌謡曲の歌手として敷かれた路線や歌現場に彼女がささくれ立つ違和感を感じていたのだ。
若者たちの世界は一途に狂奔している。それに共鳴しながら、加藤が続ける芸能人の日々は虚飾にまみれている。
加藤は現代を生きる若者の自分と、歌世界に居所を探すもう一人の自分に引き裂かれていた。


歌手になってから3年目を迎える1968年3月、加藤登紀子は大学を卒業することになった。
だが安田講堂で行われるはずだった卒業式は、学生運動のために阻止されて入学試験ともども中止に追い込まれる。

その直後に学生運動の指導者だった同志社大学生、藤本敏夫と出会って二人は密かな恋仲になった。
しかし藤本は6月と8月に逮捕されて、それぞれ1か月づつ拘置所に入れられた。

さらには10月21日の国際反戦デーで新宿駅騒乱を指揮した容疑で、11月から翌年の6月まで8ヶ月間、拘置所に勾留されてしまう。
そこからもらった手紙には、「拘置所のトイレをあけるとねずみが顔を出し楽しい」といったことが書かれていた。
それが後に、歌になっていく。

「歌を作ったよ、聞いてくれる?」と小西が加藤登紀子にいわれたのは、1969年の早春に仲間たちと新宿で酒を酌み交わした帰りで、同じ方向だったので一緒に乗ったタクシーの中だ。

ガランとした、あまり女の子のものらしくない部屋の真ん中あたり、あぐらでギターを弾きながら、加藤は初めてのオリジナル「ひざ小僧の子守唄」を歌った。
酔いのせいもあろう、少しひび割れ加減の声でひとりごとみたいに歌った”人恋い”の歌である。僕は居住まいを正した。鳥肌が立つような感動に襲われた。


 ひとりで寝る時にはよォー ひざっ小僧が寒かろう
 おなごを抱くように あたためておやりよ
 ひとりで寝る時にはよォー 天井のねずみが
 歌ってくれるだろう いっしよに歌えよ


「この人はやっと、自分の歌を見つけた」と思った小西は最後まで歌を聴き終わって、彼女が新たな出発点に立ったことを確信した。
加藤登紀子もまた自分で初めて作詞作曲した歌によって、「私は自分をやるために歌手をやっているんだな」ということがわかったという。



そんな加藤登紀子の背中を強く押してくれたのが、5月29日に大坂厚生年金会館で開催された「メッセージ・コンサート」での反響だった。
共演したのは関西フォークの代表的なシンガー、高石友也、五つの赤い風船 そして先鋭的なロック・バンドのジャックスである。
タイトルは「ひとり寝の子守唄」に変わっていた。

初めて、「ひとり寝の子守唄」を歌った。「オリジナルで全部やったら」って高石さんに励まされて、ジャックスが私のバック・バンドやってくれて。すごかった。
私は一方で、演歌歌手の間でシャンソンやってたから聴衆は面くらったようだったけど、「ひとり寝の子守唄」で私も聴衆も「ウッ」ってくるものがあったんですね。すごい反響で、みんなに励まされてオリジナルをメインでやろうっていう出発点になったんです。
歌そのものは獄中の夫や仲間への個人的な思いを書いたんだけど、やっと認められたんだなぁって。それで何が何でもシングルカットしなくちゃって。




シングル盤の「ひとり寝の子守唄」は1969年9月に発売されてヒットし、日本レコード大賞では歌唱賞を受賞した。
ここから加藤登紀子はソングライターとしての活動を行うことによって、70年代に入ってから登場してくる女性シンガー・ソングライターたちのさきがけとなる。

そこで彼女が独自性を発揮したのは、単に自分の気持ちやメッセージを主張するにとどまらず、老若男女に伝わる普遍的な歌を目ざしていたことだった。
そして京都の旧制三校のボート部に歌い継がれてきた「琵琶湖周航の歌」や、俳優の森繁久彌が自作自演した「知床旅情」をカヴァーしてヒットさせたことで、ジャンルや世代を超えた歌手として広く認められていく。

その一方では邦楽や洋楽という枠にもとらわれることなく、自ら訳した日本語詞で「愛のくらし」(1971年)や「100万本のバラ」をヒットさせるなど、スタンダード・ソングを根付かせたという面でも先駆者の一人となった。



〈参考文献〉加藤登紀子著「加藤登紀子の男模様」(三省堂)、小西良太郎著「昭和の歌100君たちが居て僕が居た」(幻戯書房)、村田久夫・小島 智 編集「日本のポピュラー史を語る 時代を映した51人の証言」(シンコーミュージック)









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