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アート・ブレイキーを偲んで〜ピアニストからドラマーへの突然の転身、親日家、後進たちに刻み続けるハートビート(鼓動)

2025.10.15

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アート・ブレイキー。脈々と続くジャズ史において、輝かしくその名前を刻んだ名ドラマーである。

1919年10月11日 、アメリカ合衆国のペンシルベニア州ピッツバーグで産まれ、71歳を迎えた5日後の1990年10月16日に肺炎のためこの世を去る。親日家として知られてた彼は、生前こんな言葉を残している。

「私は今まで世界中を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間として!」


当時、ジャズ界で大活躍していたアート・プレイキーですら、本国アメリカでは差別されていたのだ。そんな中、来日した際に熱心なファンに出迎えられ、心から感激したという。

1961年の初来日以降、何度も日本で演奏を行った。かつての妻の1人が日本人だったという事実。演奏したレパートリーの中には、「雨月」「京都」「銀座」など、日本をテーマにしたものも存在するほどだ。



1970年代以降、ブレイキーが率いたバンド「ジャズ・メッセンジャーズ」に鈴木良雄、鈴木勲などの日本人がレギュラーまたは客演で加わっている。また、来日時には日本人ドラマーのジョージ川口、白木秀雄らともドラム合戦を繰り広げることもあった。

亡くなる間際まで来日を繰り返し、特に夏のフェスティバルでは、顔的存在となって多くの日本人に愛され続けた。一体どんなドラマーだったのだろう?

「ブレーキの壊れたダンプカー」「ナイアガラロール」と異名を取るドラムの連打を武器に、ジャズシーンを席巻した演奏スタイルは、まさに唯一無二だった。

ブレイキーがドラムを叩き始めたきっかけとして、ある面白い逸話が残っている。

幼い頃からピアノを学んでいたある日、突然ドラマーに転身したというのだ。10代後半からジャズピアニストを志してニューヨークへ進出。ある夜、演奏していたクラブに、ギャングとも交流のあった店のボスが、別のピアニストを連れて来て弾かせたところ、優れた演奏をしたため、ボスはブレイキーに「お前はタイコでも叩いてな!」と拳銃をちらつかせながら脅したというのだ。

当然ながらドラムの腕は大したことはなく、バンド仲間からは馬鹿にされる日々が続く中、盟友のトランペッター、ディジー・ガレスピーが熱心にアドバイスをし、みるみるその腕を上げたという。

1944年、25歳を迎えてビリー・エクスタインの楽団へ入り、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらとの共演を経て、35歳(1954年)にして、から1955年にかけて“ファンキー・ジャズ”の第一人者としても知られるピアニスト、ホレス・シルヴァーと共に初代のジャズ・メッセンジャーズを結成。

“ハード・バップ”を牽引したトランペット奏者クリフォード・ブラウンや、アルトサックス奏者ルー・ドナルドソンらを擁して、ジャズクラブの名門「バードランド」に出演して人気を博すようになる。

以降、当時多くのジャズメン達が辿った“浮き沈みの激しい音楽人生”を生き抜きながらも、ジャズ界に大きな功績を残す存在となっていく。

ジャズ・メッセンジャーズを率いながら、多くの新人ジャズメンを発掘し、育み、超一流に育て上げたのだ。「アート・ブレイキーがいなかったら、多くの才能に満ち溢れたジャズメンが、その才能に自ら気づくことなく世に出なかった」とも言われているほどだ。

自らのバンドを“メッセンジャーズ(伝道師たち)”とも語っていたアート・ブレイキー。今もなお、現役のジャズメンたちの心に大切なハートビート(鼓動)を伝え続けているのだ。



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