2013年に亡くなった映画監督の大島渚について、当時のニュースは告別式の最後に弔辞を読んだ坂本龍一が、「あなたは私のヒーローでした」と語ったと報じていた。
「一人で(「戦場のメリークリスマス」の)台本を小脇に抱えて会いに来てくださいました。『俳優として出てください』と言われ、僕は心の中では『はい』と叫んでいたけど、グッと我慢して無謀にも『音楽をやらせてくれるなら出ます』と言った。監督は『いいですよ』と即答してくれました」と懐かしそうに振り返った。
[映画.com ニュース]大島渚監督葬儀 坂本龍一、弔辞で「戦メリ」出演時の思い出語る 2013年1月22日(外部サイト)
最も旧い体質を持つメジャーの映画会社だった松竹を1961年に飛び出した大島渚は、独立プロダクション「創造社」を設立して「白昼の通り魔」(1966年)、「忍者武芸帳」(1967年)、「絞死刑」(1968年)、「新宿泥棒日記」(1969年)と、次々に問題作や意欲作を発表した。
その4作品は創造社とアート・シアター・ギルド(ATG)の提携作品で、坂本はそれらの社会的かつ政治的な映画を、中学から高校時代にかけてリアルタイムで観ていた。
ATGの拠点だった映画館のアートシアター新宿文化は、明治通りと新宿通りが交差する辺りにあった。
そして坂本が1967年春から70年まで通っていた新宿高校は、その少し先、明治通りと甲州街道の近くに位置していた。
自宅が京王線の仙川にあった坂本の場合、新宿駅の中央口を出て新宿中央通りを歩くのが最短の通学路になる。
そこは中村屋、三越、紀伊國屋書店、丸井、伊勢丹、映画館、レコードの「コタニ」などが立ち並び、一本路地に入れば喫茶店、同伴喫茶、ラーメン屋、天丼屋、定食屋、パチンコ、スマートボール、寄席、麻雀荘、居酒屋、バーと、種々雑多の店がひしめき合う一帯だ。
しかも1960年代後半の新宿は、政治闘争とアングラ・ムーブメントの発信地であった。
普通に歩けば数分で通り抜けられるのに、3、40分かかっても学校に着けずに遅れる者も多かった。
ところで映画の出演依頼を受けたときの坂本は、精神的にはヘヴィになっていた時期だったという。
予想していなかったイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の世界的なブレイクがあり、5年間を駆け抜けた後でパブリック・プレッシャーを背負っていたからだ。
そうした時期を抜け出すことが出来たのは、映画出演がいいきっかけとなった。
大島監督がYMOの活動にも注目してくれたことが、世界的な規模で製作される映画出演につながったのである。
それまでも映画の依頼は何本かあったけど、断っていたのね。別に、やってもいいけど、特にやる必要もないと思っていたから。でも、『戦メリ』ではやったほうがいいと思ったんだ。やっぱり勘で、絶対やったほうがいいと。
デヴィット・ボウイが主演する映画ならば、成功するかしないかは別として、世界中にいるボウイのファンが注目する。
そして世界の音楽シ-ンに関わる重要な人たちもまた、ボウイの映画ならば必ず見るに違いない。
ボウイと一緒に映画をやれることに即座に反応したのは、自分が生きてきた音楽の世界という共通点があったからだろう。
しかし音楽をやらせてもらうことを条件に俳優に起用された坂本だったが、実はそれまで映画音楽を手がけたことは一度もなかった。
そこでプロデューサーだったジェレミー・トーマスに対して、「右も左も何も知らないので、何かひとつだけ参考にしろというんだったら何がいいか」と正直に尋ねたそうだ。
そしたら『市民ケーン』を参考にしろとジェレミーが言った。かっこいいでしょう? こいつは頭がいいと思ったよ(笑)
英国人のジェレミーは父親が50本の映画を撮った監督だったこともあり、幼い頃からナショナル・フィルム・シアターなどに通って映画の影響を受けて育った。
黒澤明や溝口健二の映画が上映されていたロンドンの映画館で、大島作品と出会って非常に過激な映画を作る監督だと知った。
本人に会ったのは1978年のカンヌ映画祭、大島が『愛の亡霊』で監督賞を受賞した時のことだった。
偶然にも二人が隣同士だったため、名刺を渡すことができたという。
それから数年後、大島から200ページもの脚本が送られてきた。
それが『戦場のメリークリスマス』だった。
一緒に映画を作る機会を与えられたのだと解釈したジェレミーは、資金調達を引き受けてプロデューサーとして映画を完成させる。
映画ができて、試写の時にジェレミーがイギリスから来たのね。ジェレミーはその時初めて聴いただけ。あたまの五分ぐらいか、タイトルの音楽が終わるまで聴いて、すぐ連れ出されて、
「ユー・アー・ノット・グッド、‥‥‥バット・グレイト!」
と言われた。
うれしかった。
坂本はジェレミーと友達になれたことから、ベルナルド・ベルトルッチにも出会って、映画『ラストエンペラー』に出演して音楽を手がけることになる。
ジェレミーは『戦場のメリークリスマス』に起用された北野武とも、10数年後に『BROTHER』のプロデューサーとして仕事をしている。
人と人がつながることで才能と才能が出会い、相手を理解して信頼することによって、時として歴史に残る作品が生まれるということがよくわかる。
(注)文中の発言はすべて、坂本龍一著「seldom illegal 時には、違法」(角川文庫)からの引用です。
●この商品の購入はこちらから
●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから