ギター・エヴァンジェリスト、ブラインド・ウィリー・ジョンソン(Blind Willie Johnson)
ブルーズの壮大な歴史を振り返ろうとする時、その幕開けである20世紀初頭のカントリー・ブルーズを担った男たちの中には、視力を奪われた者が多いことに気づく。その理由については、以前のコラム『伝説のブラインド・レモン・ジェファーソンは本当に“盲目”だったのか?』で述べた。
今回紹介するブラインド・ウィリー・ジョンソンもその一人。ギターの弾き語りで神の教えを説く宗教歌がレパートリーだったジョンソンの場合、カントリー・ブルーズマンやゴスペル・ブルーズ歌手というよりは、「ギター・エヴァンジェリスト(伝道師)」と表現した方が正しい。
ただ、強烈なダミ声のシャウトやポケットナイフを使った魂を揺さぶるようなスライド奏法は極めてブルーズ感覚が強く、ジョンソンは数多くのブルーズマンやロックミュージシャンから常に研究対象にされてきた。
生涯をかけてジョンソンのスライドを研究したライ・クーダー
ブラインド・ウィリー・ジョンソンの名は知らなくても、ライ・クーダーのデビュー作や映画『パリ、テキサス』で聞こえてくる「Dark Was the Night」、エリック・クラプトンの生還作『461 Ocean Boulevard』の冒頭に収められた「Motherless Children」、レッド・ツェッペリンの『Presence』収録の「Nobody’s Fault but Mine」、そしてボブ・ディランのデビュー作に収録の「In My Time of Dyin’」などは熱心な音楽ファンなら一度は耳にしたことがあるはず。これらは一人のギター・エヴァンジェリストとその歴史的録音を通じて再発見・アレンジされた曲なのだ。
また、音楽ドキュメンタリー『The Blues』シリーズの1本、ヴィム・ヴェンダース監督の『ソウル・オブ・マン』でブラインド・ウィリー・ジョンソンのことを知った人もいるだろう。ヴェンダースと共に本物の音楽を追求してきた旅人ライ・クーダーは、生涯をかけて必死でジョンソンのスライド・スタイルで弾こうと試みてきたと言う。
彼にはとんでもない器用さがある。火花を散らすようなメロディーラインのすべてを弾くことができる。素晴らしいシンコペーションがあり、親指を強く動かし続けている。少ししか弾いていないのに、一体どうやったらあれほどの活気のあるサウンドを生み出せるのか、僕には分からない。
1920年代のアメリカ南部での伝説の録音
ブラインド・ウィリー・ジョンソンは1897年にテキサス州マーリンに生まれた。幼い頃に母と死別。父親は再婚相手が他の男と一緒にいるのを見て嫉妬。殴りつけると、その報復として灰汁水入りの鍋を7才のウィリーの顔に投げつけことが原因で失明した。説教師になることを夢見ていた少年は、やがてギターをマスターし、賛美歌集をもとに教会や集会で歌うようになる。当時の様子を知る人によれば、
冬には風の中に立ち、寒さで指がかじかむまで、しゃがれ声に合わせて荒削りなギター伴奏を止むことなく続けていた。錫のカップがギターのネックに針金で括り付けられ、演奏中にコインを投げ入れられるようになっていた。
1920年代半ばには、ハーンという町で同じ盲目のブラインド・レモン・ジェファーソンと交流していたという説もある。ジョンソンが街頭でゴスペルを歌い、ジェファーソンが違う場所でブルーズを歌うといった姿が目撃されている。二人とも大きな声だったそうだ。その後、1926年頃にジョンソンはウィリー・ハリスと結婚。1年後にはアンジェリーヌという別の女性とも結婚していることから、何年かは二重生活を送っていたとも言われている。
初録音は1927年12月3日。コロンビアがテキサスにスタッフを派遣して野外録音を行った。この時ジョンソンは6曲を吹き込んだ。
「I Know His Blood Can Make Me Whole(主の血のおかげで)」
「Jesus Make Up My Dying Bed(どうか私の死の床を)」
「It’s Nobody’s Fault but Mine(罪は私に)」
「Motherless Children Have a Hard Time(母のない子は辛い目に)」
「Dark Was the Night, Cold Was the Ground(夜は暗く、土は冷たく)」
「If I Had My Way I’d Tear the Building Down(思い通りになるのなら)」
デビューとなった78回転盤の広告。肖像写真はこの1枚しか残されていない。
レコードの売れ行きは良く、翌年12月と翌々年12月にもジョンソンは再訪したコロンビアで録音。1928年はダラスでウィリー・ハリスの物悲しい声とともに4曲。1929年にはニューオーリンズで10曲。そして最終セッションは1930年4月20日のアトランタ。再びウィリーを伴って10曲を残した。1927年から合計30曲。これがブラインド・ウィリー・ジョンソンの文化遺産のすべてである。
時は30年代を襲った大恐慌。レコードも売れなくなった。ジョンソンはその後、テキサス州ボーモントに戻り、教会や街頭で歌い続けながら、1945年に48歳で病気で亡くなるまで人知れずそこで暮らした。
NASAボイジャーに乗って宇宙の旅へ
その死から32年後──1977年の夏。ジョンソンの魂は思わぬ場所へと旅立つことになる。
NASAは太陽系外惑星の探査計画として、無人探査機ボイジャーを打ち上げ。万が一、地球外生物に発見された時のために、ボイジャーには地球からのメッセージ/プレゼントとして“ゴールデンレコード”が搭載された。
そこには自然の音、動物の鳴き声、55の言語挨拶、そして90分間の「地球の音楽」も入っていた。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンから、グレン・グールド、ルイ・アームストロング、チャック・ベリーなど世界各地から選ばれた31のトラックの中には、「Dark Was the Night, Cold Was the Ground(夜は暗く、土は冷たく)」があった。
ギター・エヴァンジェリスト、ブラインド・ウィリー・ジョンソンは、今も宇宙の暗闇のどこかで歌い続けているのだ。
「Dark Was the Night, Cold Was the Ground(夜は暗く、土は冷たく)」
ボイジャー1号と2号に搭載されたゴールデンレコード。画像はWikipediaより
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*参考文献/『ロバート・ジョンソンより前にブルース・ギターを物にした9人のギタリスト』(ジャス・オブレヒト著/飯野友幸訳/リットー・ミュージック)、『CROSSBEAT Presents スライド・ギター』(五十嵐正監修/シンコーミュージック・エンタテイメント)
*このコラムは2017年7月に公開されたものを更新しました。
【執筆者の紹介】
■中野充浩のプロフィール
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