吉田拓郎がビートルズを知ったのは1964年の初めのことで、日本でレコードが発売になる直前だった。
当時は高校2年で広島に住んでいたのだが、学校から帰ってくると夕方5時から始まるラジオ番組を聞くのが日課になっていた。
アメリカの音楽誌「ビルボード」のランキングを紹介する「ビルボードTOP40」が、岩国の米軍キャンプ向けのFENから英語で流れていたのである。
ある日、何かの幕開けを思わせるような感じで「プリーズ・プリーズ・ミー」が、高らかに吉田拓郎の耳に飛び込んできた。
最初は「なんじゃこれ?!」という、戸惑いに近い印象が強かったという。
それまで聴いてきたアメリカンポップスと違って、なにか騒々しい音楽だというのがビートルズの第一印象だった。
ところが何度かその曲を耳にするうちに、騒々しさが開放感に変わっていったのである。
そのうちに4人のハーモニーが「お前も早くやれよ」と、しきりに誘っているようにさえ聞こえてきた。
しかし、広島にある全てのレコード店を回っても、まだビートルズを置いている店は一軒もなかった。
日本の東芝レコードから商品が発売されるのは、2月に入ってまもなくのことだった。
次々に発売されたレコードを愛聴するだけでなく、自分でコピーして友達と歌い始めるのに時間はかからなかった。
吉田拓郎が初めて動くビートルズを見たのはその年の秋、新天地にある映画館でのことだった。
広島では東京よりもずいぶん遅れて、『ビートルズがやって来る ヤァー!ヤァー!ヤァー!』が公開になった。
それを何度も何度も観に行った吉田拓郎は、そのたびに必ず叫び出したいような衝動に駆られた。
そこでジョン・レノンに宛ててファンレターを書くことによって、抑えきれない胸の内を伝えようと思ったのだ。
――拝啓ジョン ・レノン様
僕はアジアの中の日本という国の広島という街に住んでいる十八歳です。
吉田拓郎はペンを休めて、ジョン・レノンふうにギターを持つ格好をして、軽く腰を落としてみる。
そして膝を心待ち開き気味にして立ち、膝でリズムを取るように体を揺らす。
次にジョージ・ハリスンが「恋する2人」でやっていたように、両足首をスケートのように外側に向かって、軽く放り投げるようにステップしてみる。
僕たちも新しい若者の音楽を作りたいと思います。
もうすぐ僕たちは高校卒業して、大学に進みます。
今のバンドは解散して、新しいバンドを組んで、ビートルズのようになりたいと思っています。
自分たちで曲を作って、自分たちで演奏して世界中の若者に注目されたい。
そして、ビートルズと同じステージに立ってみたい。それが僕たちの夢です。
ビートルズに出会った吉田拓郎はバンドを組んで、簡易なセットのドラムを叩くようになっていた。
映画で見た一人ひとりの動きを思い浮かべながら、リンゴのスティックの持ち方や首の動かし方も真似てみた。
そしてファンレターの最後を、彼はこうしめくくった。
――遠く日本から応援してます。
そして、いつか僕たちがビートルズを追い越します。
ボールやリンゴ、ジョージにもよろしく。
広島にて、吉田拓郎。
ビートルズから受け取ったのは音楽だけでなく、「君もやってみれば?」というメッセージだった。
だから応援するだけでなく、追い越すことを目標にしたのだろう。
おそらくは世界中のフォロワーが、そのように行動したのである。
そこから10年目となる1973年に出したアルバム『伽草子』に、その名も「ビートルズが教えてくれた」(作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎)という楽曲が入った。
しかし残念ながらビートルズは1970年、つまり吉田拓郎が「イメージの詩」でレコード・デビューしたときに、実質的には解散した後だった。
(注)参考文献 田家秀樹著「小説・吉田拓郎 いつも見ていた広島」 (小学館文庫)
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