ダグ・ファイガーは1952年、アメリカの中西部、ミシガンの裕福な家庭で生まれた。兄のジェフリーは弁護士で、尊厳死の啓蒙家だったジャック・フェヴォーキンを非難する保守的な人々のリーダー格だった。
ダグはスカイというバンドのベーシストで、ボーカリストだった。いつか、ロスかニューヨークに出ていこうと夢に見る高校生だった。
だが、ミシガンの郊外の高校生だった彼に大きなチャンスが訪れる。
ローリング・ストーンズ、トラフィックといったイギリスのビッグネームのプロデューサーとして名を馳せていたジミー・ミラーから声がかかったのだ。そしてスカイは、1970年、1971年、RCAレーベルから2枚のアルバムを発売することになる。だが、レコードセールスは、残念ながら失敗に終わる。
その後、いくつかのバンドを経て、ダグはロサンジェルスに出てくる。高校時代にプロデビューした彼も、すでに25歳になっていた。
そしてある日、ブティックにぶらりと立ち寄った時のことだ。彼の胸が突然、ビートを奏で出したのだ。
ダダダダダン!ダ!ダ!ダ!ダダダダダン!♪
(頭の中でGのオクターブを使ったベースリフを想像してください)
(もしくは、楽曲のイントロを参考に。。。)
ブティックにいたのは、まだ17歳のシャローナ・アルペリン。ダグは8歳も年下の女の子に一目惚れする自分を疑ってみたが、冷静を努めようとしても、胸の鼓動は収まらなかった。
おー、僕の小さく、可愛いあの子 可愛いあの子
いつになったら、時間を作ってくれるんだい
シャローナ
その日から、ダグの猛烈なアタックが始まる。
ちなみに、すでにザ・ナックとしてロスで活動していたダグには、ガールフレンドがいた(ブティックには、ガールフレンドと一緒に行ったのだ)。それだけでなく、シャローナにもボーイフレンドがいたし、そのボーイフレンドはザ・ナックのファンで、彼とシャローナは一緒にザ・ナックのコンサートにも足を運んでいたのである。
ダグはガールフレンドと別れ、シャローナに対する想いを歌にする。それが、1979年にビルボード誌6週連続ナンバーワンとなる「マイ・シャローナ」だ。
そして運命の出会いからおよそ、1年後、シャローナはダグとの交際をようやく受諾する。シャローナは18歳になっていた。
そしてダグはといえば、「マイ・シャローナ」を書き上げることで、また運が向いてきたのだろう、キャピトル・レコードと契約、スージー・クアトロなどを手がけたプロデューサー、マイク・チャップマンの手腕もあって、一躍スターダムを駆け上がっていく。
もう止まらない 諦めるよ
頭のにはいやらしい妄想が駆け巡る
君みたいな若い子と触れたりしたら
マイ、マイ、マイ、ウォー!
マ、マ、マ、マイ・シャローナ!♪
「マイ・シャローナ」は人気テレビ番組「サダデイ・ナイト・ライブ」でパロディが登場するなど、社会現象になった。当然、バンドはロスにだけいるわけにはいかず、アメリカ国内だけでなく、はるばる日本にもやってきた。シャローナは、ダグと一緒に世界を旅する生活を選んだ。
だが、ふたりの恋は4年間でピリオドを打つこととなる。「ロックンロールな生活」に疲れたことと、ダグのアルコール依存が原因だったと後にシャローナは語っている。
ザ・ナックはその後、2枚のスマッシュ・ヒット・シングルを放つが、デビュー・シングルを越えるヒット曲は結局出せずに、解散した。
ダグ・ファイガーは2010年のバレンタイン、脳腫瘍と肺ガンのため死去。
シャローナは、ロスに戻り、セレブ相手の不動産業をスタートさせ、成功を収めている。
シャローナ・アルペピン公式サイト(PCサイト)
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