1962年、アメリカではボサ・ノヴァがちょっとしたブームになっていた。
その火付け役となったのが、ジャズ・サックス奏者のスタン・ゲッツがギタリストのチャーリー・バードと録音したアルバム『ジャズ・サンバ』だ。しかし、この時点ではまだ本物のボサ・ノヴァではなく、アメリカ人の解釈によるボサ・ノヴァ・テイストのジャズが主流だった。
それから2年後の1964年、スタン・ゲッツは本場ブラジルからボサ・ノヴァの大物歌手ジョアン・ジルベルトを迎えて、アルバム『ゲッツ・ジルベルト』を録音する。これが、アメリカにおけるボサ・ノヴァ・ブームを決定づける一枚となった。
当時、マイルス・デイヴィス・クインテットに加入していたジャズ・サックス奏者ウェイン・ショーターは、1966年に出会ったポルトガル出身のアナ・マリアと結婚し、ポルトガル語やブラジルの文化、音楽などを妻から吸収していった。同じサックス奏者としてスタン・ゲッツからも影響を受けていたというウェインだったが、ボサ・ノヴァをなぞるようなことはしなかった。
一方ブラジルでは、1967年のインターナショナル・ソング・フェスティバルへの出演をきっかけに国内で注目を浴びていたミルトン・ナシメントが、1968年にブラジルを新婚旅行中だったアメリカのジャズ・ピアニスト、ハービー・ハンコックに見出される。
そして同年、ミルトンはアルバム『コーリッジ』で早速アメリカでデビューを果たす。プロデューサーは、『ゲッツ・ジルベルト』をプロデュースしたクリード・テイラー。ハービー・ハンコックや、ジャズ・ドラム奏者のトニー・ウィリアムスもこのアルバムに参加している。だが、当時このアルバムはあまりヒットしなかった。
ウェインがミルトンを知ったのは、全く別のルートだった。
ダーレン・チャンという、カリフォルニアのイヴェント・プロモーターである若い中国人女性を通してだった。彼女が初めてミルトンのステージを観た時に「ミルトンとウェインの考え方は似ているなと思ったの。ウェインは絶対にミルトンを聞くべきだと思った」のだという。
「ミルトンがボサ・ノヴァにも、典型的なブラジルのポピュラー・ミュージックのフォーマットにも囚われていないところに心を動かされたんだ」
何ものにも囚われない自由な考えを音楽に対して持っているウェイン・ショーター自身も、ミルトンについてそのように語っている。
1970年、マイルスのクインテットを脱退したウェインは、その年に録音したリーダー作『モト・グロッソ・フェイオ』で、早速ミルトンの曲をカヴァーした。
そして、ジョー・ザヴィヌルらとウェザー・リポートを結成したウェインは、1972年にコンサート・ツアーでブラジルを訪れる。同じ日にミルトンのコンサートがあると知ったウェインはジョーとともに、その日のウェザー・リポートのライヴを予定より少し早く終わらせて車を走らせ、ミルトンのライヴを観に行ったという。
たびたび妻のアナ・マリアから、「ミルトンと一緒にレコードを作ったらどうか」と勧められていたウェインは、1974年、ブラジル出身のジャズ歌手フローラ・プリムがミルトンをアメリカに連れてくるという噂を耳にする。そこで一緒にレコードを作るために渡航費をフローラと出し合い、ミルトンの仲間であるキーボード奏者のヴァギネル・チーゾとドラム奏者のホベルチーニョ・シウヴァもアメリカに招いた。
アメリカのジャズ界における憧れの人物とのレコーディングということで、緊張し萎縮していた3人をリラックスさせるために、彼らをウェインの自邸に2週間滞在させ、のんびり過ごさせたそうだ。その間にウェインと彼らは打ち解け、お互いに理解しあい、1974年9月12日にアルバム『ネイティヴ・ダンサー』のレコーディングは開始された。
アルバムの冒頭を飾る「ポンタ・ジ・アレイア」は、ミルトンの故郷ミナスとブラジルの海岸線とを結ぶ鉄道の終着駅の名前が、タイトルの由来だ。
童謡のように単純に聞こえるメロディーだが、8/9拍子という変拍子が難しい1曲だ。ミルトンが初めてニューヨークを訪れた時、あるミュージシャンの誕生日を祝うパーティーでこの歌をピアノを弾きながら歌い始めたら、何人かのミュージシャンが楽器を手にしてプレイしようとしたけれど、誰もついてこられなかったという。そしてミルトンの希望により、アルバムの1曲目に収められた。この曲は後にアース・ウィンド&ファイヤーにもカヴァーされている。
Ponta De Areia
アルバム3曲目に収録されている「タルジ」はポルトガル語で「午後」を意味する。タイトル通りゆるやかな午後を感じさせる1曲だ。ミルトンのスキャットとウェインのソプラノ・サックスの音色がまるで夢のように美しく絡み合う。
このレコーディングに参加したハービー・ハンコックも次のように語っている。
「ウェインがソロを取り、ミルトンがまた歌い始める。するともう、それが声なのかどうかも分からない。ウェインは歌うようにサックスを吹いたし、ミルトンの声には、楽器と同じ資質があったからね。」
Tarde
ブラジルの内陸部にあるミルトンの故郷ミナス・ジェライス州の、鉱物資源が多く産出されるという豊かな大地や風、風に揺れる木々の緑、川、やがて川が流れ込むブラジルの海を思わせるミルトンの声の幅広い音域とふくよかな表現が、ウェインのサックス・プレイにも映り込んだようで美しい。
アルバム『ネイティヴ・ダンサー』の大ヒットによって、ミルトン・ナシメントの名前は世界中に知られることとなった。また、ブラジル国内ではこのアルバムがジャズへの入り口になったとも言われている。多くのファンが、このアルバムをきっかけにウェザー・リポートからマイルス・デイヴィス・クインテットへと遡って聴き始めたというのだ。
『ゲッツ/ジルベルト』の発売から10年後の1974年、ウェイン・ショーターとミルトン・ナシメントが出会って生まれたアルバム『ネイティヴ・ダンサー』は、ボサ・ノヴァではないブラジル音楽の新しい風をジャズ界に吹き込んだ。そして、1970年代のアメリカで、クロスオーバー・ジャズにおけるブラジリアン・フュージョンの先駆けとなる1枚となったのだ。
Tarde(LIVE)
*参考文献、引用元:「フットプリンツ」評伝ウェイン・ショーター ミシェル・マーサー著 新井崇嗣訳 潮出版社
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