1964年の春に中学生になったぼくの小遣いは、4月から500円にまで引き上げられた。
これで月に一枚はシングル盤を買えるようになったが、言いかえれば月に一枚だけしかレコードを買えないということでもあった。
当時は洋楽のシングル盤が330円、邦楽は300円、中学生にとってレコードは高価な品物だった。
アルバムはLP盤で1,500円から2000円もしたので、お年玉などの特別な臨時収入がないと買うことは出来なかった。
だから音楽との出会いはいつも中学の入学祝いにと、父親から買っもらったトランジスタ・ラジオから始まった。
ソニーの最新鋭機種だったNTR819Xは12,200円、当時の大卒の初任給とほぼ同じ価格だった。
しかし高いだけあって8石2バンド・スーパー、中波帯と短波帯の電波を切り替えて聴くことが出来た。
短波放送では海外の放送も聴けたので、夕方になると短波に切り替えて海外の放送局からの電波を受信することに熱中した。時には太平洋を越えてアメリカや南米の放送局の電波も聴くことが出来た。世界地図と地球儀とを照らし合わせながら、よくわからない外国語の放送に耳を傾けた。
各県ごとにあるNHKの地方局が放送を終了して電波が停止する夜の11時以降は、当時住んでいた仙台でも東京や大阪、名古屋、時には福岡などの放送局の番組がかろうじて聞こえた。
やがてそのトランジスタ・ラジオで東京のTBS「パックインミュージック」やニッポン放送「オールナイトニッポン」、大阪のMBS「MBSヤングタウン」などの深夜放送にかじりつくようになっていく。
トランジスタ・ラジオは文字通り、世界に開かれた音楽の窓だった。
ぼくと同じ学年だった忌野清志郎は当時の少年たちがトランジスタ・ラジオに抱いていた気持ちを、こんなふうに歌にしてくれている。
この歌の中で好きなのは「♪うまく言えたことがない ない…」の語尾の繰り返しを、忌野清志郎が「ない・あい・あい」と唄うところだ。
それは「上を向いて歩こう」の「♪あー・る・こう・おう・おう・おう」へのオマージュだと、ぼくは勝手に思っている。
忌野清志郎が自らの高校時代を振り返った「トランジスタ・ラジオ」は、1980年10月にRCサクセション11枚目のシングルとしてとしてリリースされた。
RCサクセションはライブバンドとして知る人ぞ知るという存在から、口コミを通じて急速にその名が広まりつつあった。
ライブ・アルバム『RHAPSODY』が発売になったのは6月5日だ。
そして8月1日には「再発売実行委員会」の運動が実を結び、廃盤になっていた幻の『シングルマン』が枚数限定で発売された」。
朝日新聞の社説(7月20日)にも取り上げられて、「RCのコンサートへ行けば、今日のわが国のあらゆるタイプの若者像を瞬時にして知ることができる」と書かれた。
人気漫才師の春やすこは「RCのコンサートのチケットを手に入れることは松田聖子の涙を見ることよりも難しいんちゃう?」という名(迷?)言を吐いた。
まさにブレイク前夜で、それを忌野清志郎も実感していた。
ある日、仕事が終わって帰りのタクシーの中で、ラジオからこの曲が2~3回流れてきた時、自分達が売れているのを実感したんです。
フォーク、ソウルミュージック、そしてロック。RCサクセションにとって、どんな音楽が正しいのか探し、辿り着いた答え。
ライブバンドとして地位を掴み、次にこの曲で、シングルヒットのコツを掴んだと言っても、間違いありません。(注)
ライブバンドとして地位を掴んだRCサクセションが放ったシングルの「トランジスタ・ラジオ」は、日本全国のアンテナ感度の高い少年少女たちにキャッチされていった。
忌野清志郎のホットなメッセージは初めてのヒット曲となり、RCサクセションは日本を代表するロックバンドへと成長していくのである。
(注)本コラムは5月15日に公開されたコラムの改訂版です。忌野清志郎の発言は、雑誌『ROCKIN’ ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951-2009』からの引用。
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