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「街に緑を、若者に広場を、そして大きな夢を」~1974年の郡山ワンステップフェスティバル

2023.08.04

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1974年の夏、福島県郡山市で11日間に渡って開催されたワンステップフェスティバルは、「街に緑を、若者に広場を、そして大きな夢を」、そんなテーマを掲げた地元の若者たちが始めた手作りのイベントだ。

その一環として行われたロック・コンサートは、8月4・5日、そして8・9・10日の5日間だった。

当時の日本では最大規模となるこの野外ロックフェスに、日本から30組以上のバンドやミュージシャンが出演した。
アメリカからも初日にリタ・クーリッジとクリス・クリストファーソン、最終日にはヨーコ・オノ&プラステック・オノ・スーパーバンドがやってきた。

この動画は1974年8月9日のライブにおける、かまやつひろし&オレンジのダイジェスト音源である。


イベントの実行委員長となったのは佐藤三郎、1970年に商店会の仲間と行ったアメリカ旅行の帰りにハワイで観た映画『ウッドストック』に感銘を受けて、「日本版ウッドストックをやりたい」と行動を起こしたのがすべての始まりだった。

若者が自分で考えて自分で動き出すこと、「ワンステップ」踏み出すことの大切さを伝えたかったのです。


佐藤は仲間とともにミニコミ誌「ワンステップ」発刊し、反公害や自然保護を訴える活動を始めるうちに、「断絶している世代のコミュニュケーションを回復しよう」と、町の若者たちによる手づくりのフェスティバルを企画していく。

開成山公園での開催に郡山市が許可を出したことに加えて、内田裕也がプロデューサーとして参加してきたことから、一気に規模が大きくなった。
共同で東芝EMI の石坂敬一ディレクターを筆頭に、各レコード会社も動いたのでそこからも大きな渦が生じて、国内外のアーティストが出演することにもつながっていった。

内田と石坂の協力によって、ニューヨークのヨーコ・オノともつながることが出来た。

なぜロックイベントだったかという問いに佐藤は、「その当時ロックを通じてメッセージを訴えることが一番わかりやすくて強い力を持つと思ったし、何より若者に楽しんでもらえると思った」と答えている。

アメリカまで出演交渉にやって来た佐藤たちに会って趣旨に賛同し、バンドを率いて来日したヨーコ・オノは記者会見の席で、はっきり「夢に共感した」からだと語った。

ワンステップに出演するのは、若者が自分たちで何かやろうという夢に共感したからです。既成社会に頼ることなく、自分たちで何かやろうということ、自分が持った夢を実現していく、そういう力を持っている、それがうれしかったので参加しようと思いました。


すべての出演者がノーギャラで参加し、ロックを手がけていたイベンターたちが裏方を支えた。
ポスターを引き受けたのは横尾忠則だった。

ところが参加者の意識と現実とは容易にかみ合わず、ヒッピーまがいのヘンな若者が集まって来ることを、必要以上に警戒する地元民も多かった。
当初は協力的だった郡山市や商工会議所などが、次第に距離を置き始めたことから、ほとんどの中学や高校がコンサート禁止令を出す事態にもなったのである。

ロック=不良と考える大人たちが当時は普通で、しかも圧倒的な多数派だったから、当日も会場の近くには行かないように教員が指導するなど、その過剰反応ぶりは滑稽なほどだったらしい。

そして実際にも最終日の夜は、キャロルの演奏中に興奮したファンが瓶や缶を投げて、けが人が出て中断する騒ぎも起こった。
それでも素人が手探りで始めたフェスとしてはおおむね順調に進み、トリを務めるヨーコ・オノ&プラステック・オノ・スーパーバンドが、夜の9時過ぎに登場した。

だが、ここで初めてオノヨーコのパフォーマンスを目にした観客が多かったので、会場にはしばらく戸惑いの空気も見られたという。
それでも最後に披露された郡山賛歌の新曲「夢を持とう」では、観客と出演者が一緒になって自由に声を張り上げて、ステージと共鳴した。

一人で見る夢は夢で終わるけど、みんなで見る夢は必ず実現するでしょう。


ヨーコ・オノが日本のロック・シーンに残してくれたこのメッセージは、その後、さまざまな人たちにさまざまな形で継承されていくことになった。



(このコラムは2014年8月10日に公開されたものです)

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